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PARFECT DAYSを映画館で見てマグロ漁師を思う

公式サイトが格好良い。
知っていることといえば、このサイトの表示される文字が書き順通りに表示されていくのだということと、外国人監督が撮ったのだということくらい。
こんなに手間のかかったサイトがつくられるくらいなのだから、きっといいものなんだろう、とは思っていた。

そんな中、信頼する人の強いすすめを受けて、見にいく機会を伺っていた。
映画の内容は、サイトのイントロダクションが詳しいので転載する。

ドイツの名匠ヴィム・ヴェンダースと日本を代表する俳優 役所広司の美しきセッション。
フィクションの存在をドキュメントのように追う。
ドキュメントとフィクションを極めたヴェンダースにしか到達できない映画が生まれた。
カンヌ国際映画祭では、ヴェンダースの最高傑作との呼び声も高く世界80ヵ国の配給が決定。

こんなふうに生きていけたなら

東京・渋谷でトイレ清掃員として働く平山(役所広司)は、静かに淡々とした日々を生きていた。
同じ時間に目覚め、同じように支度をし、同じように働いた。
その毎日は同じことの繰り返しに見えるかもしれないが、同じ日は1日としてなく、男は毎日を新しい日として生きていた。
その生き方は美しくすらあった。
男は木々を愛していた。

木々がつくる木漏れ日に目を細めた。
そんな男の日々に思いがけない出来事がおきる。
それが男の過去を小さく揺らした。

公式サイト、イントロダクションより

無名な人のドキュメンタリー

むかし、伊集院光さんがラジオで「セブンイヤーズインチベット」を「知らない人の『知ってるつもり』を見せられているよう」と評していたのだけれど、まだセブンイヤーズインチベットは、自著伝を出す人の自伝の映画化というだけあって意義があるのだろう。

PERFECT DAYSは、ある意味で特殊な立ち位置ではあるが、ただの趣味がいいトイレ清掃員の男性の日常を追いながら淡々と進んでいく。
ドキュメンタリーとフィクションの境は、どこか全体のテイストから浮ついたセリフ運びで区切られるようだったが、嫌味はない。なにせ、主人公は本当に喋らないので、その所作から人間味を探し出そうと、見る方もフィルムに没入する。

この段階で「これは映画好きの人のための映画だな」という気持ちになる。与えられるのではなくて、そこに意味を見出そうとする人が見て面白いものだ。けれど、その一つ一つの日常に起こる少しの非日常は、自分たちの感じる非日常のスペースからはハミ出ない。だから、共感できるし、考えられる。
この絶妙な塩梅が、たぶんイントロダクションに書かれた「ドキュメントとフィクションを極めた」という意味なんだろうか? なんて考えるが、あまりどうでも良い。

ただその絶妙な塩梅が、いちいち気持ちいい。

40歳の夢

10代と20代は、夢を見られる。何をしてもいいし、なんでもできるし、何者にだってなれる。一握りは。
実際、主人公平山の対比のように出てくる若者の「タカシ」は、20代の欲の幻影のような姿だな、と思った。素直さの化身というか。
それを人は失うんだ。ということを示すような、強烈で、戯画的で刹那的なキャラクタである。

じゃあ主人公の平山はなんだろう? と思うと、自分が何者か定まり始め、何者にもなれない(なりにくい)30代や40代が夢見る、ある種の理想の姿なのかもしれないな、と思った。
仕事に誠実で、自分を律し、教養に溢れ、世俗から切り離される(つまり対比されない)、けれど孤独ではない。ディストピアみたいだけれど、ユートピアのような、そんな夢の化身が平山だな、と思った。

ストーリーは、問題や汚い部分を覆い隠し、美しい。美しくはあるが、その美しさは歪(いびつ)でもある。その美しさだけを味わってもいいのだろうか? と、良い映画だなと思ったからこそ、もやもやとした気持ちが残った。

大間のマグロ

年末に見たマグロ漁師の特番を思い出した。何十年と大間でマグロ漁師をする男とその妻の話。最新の魚群探知機や機器が買えず、それでも経験一本で、独自に生み出したと言うエサの付け方を披露しながら、漁に出る。
マグロが釣れない日々が続き、食卓はマグロの餌であったトビウオの干物。いつ手入れがされたのかわからない居間や台所に風呂場。痩せ衰えた体。けれど夫婦はお風呂で夫の背中を流したり仲睦まじく過ごす、という光景が挟まれる。
そのうちに、妻は腰を悪くし、立って料理をすることもできず、畳の上にまな板を広げて包丁仕事をする。それから程なくして自活が難しくなって施設へ入った。
マグロ漁師は漁師を引退し、呼吸器をつけながら慎ましく生活する様子が映され、最後に亡くなったことが知らされた。

真摯に仕事に向き合い、時に良い時も悪い時もありながら、一生懸命に生きてきた人の美しさを、自分は何か消費してしまったのかもしれないと、なんだかものすごく切ない気持ちになった。

感動ポルノとは違う、これはこれで一種快楽のようなものな気がしている。年齢を重ねるほど、自分のやっていること、信じることを粛々と受け入れるための、何か言い訳を探すためのクリエイティブや、正解を探している。
諦念と、憧憬がちょうどよく入り混じ、自分が納得できる最後を探している。

自分を納得させるにちょうど良い景色、というのは至る所に落ちていて、PERFECT DAYSは、それを拾い集めて目の前に提示してくる。
偏屈な自分だから、こんな斜めな見方しかできていないのだろう、と思う。おそらく、この「完璧な日々」は見る人によって形を変えるからこそ、あのストーリーの閉じ方だったんだろうな、と思う。

映画館で観るべきかどうか、という部分もわからない。けれどもなんとも不思議な気持ちにさせられる映画で、感動と素直に言っていいかわからない麻薬的な何かを感じながら、映画館をあとにした。

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