リアルなものを抱きしめて生きる

アスファルトを眺めていた。東京のど真ん中でアスファルトを眺めながら、脳裏に描くのは実家のある秋田の風景。そこにある「おばあちゃんのお墓」を思い浮かべては、「このアスファルトは彼女の眠る霊園まで続いているのだろうか」と考えていた。

よく遠恋中のカップルが「私たちはこの空でつなっがている」と言い合ってお互い別々の場所で夜空を見上げる、みたいなシーンがある。あれはなにを確かめていたんだろう。ふたりの距離はそんなに遠くないってこと? 地球は丸いって理論だと、マントルに近い地面の方が繋がっている感覚を得られそうだけど。「一緒に、綺麗なものを見ている」。そんな事実を共有したかったのかな。

とにかく、ドラマや映画に出てくる遠恋中のカップルは「空」とか「星」というリアルなものを共有して、何かを確かめていた。このマントル、そして地殻を覆うアスファルトの先には、おばあちゃんの骨が埋まっている。それはとてもリアルなものだ。空とか、星よりもリアルなんじゃないかと思う。

でもおばあちゃんはもういない、2年前の今日、死んだから。私の中で、おばあちゃん以外の全てがリアルで、おばあちゃんだけがリアルじゃない。このアスファルト、いつ誰が敷いたものか全く知らないけど、私はこのアスファルトを踏みしめていて、このアスファルトが明日もここにあることを知っている。おばあちゃんがリアルじゃないのは、おばあちゃんに明日がないからだ。おばあちゃんに明日があったら、私は会いにいくのに。今度こそちゃんと、会いにいくのに。

きっと私には明日がくる。そして、今近くにいる人たちにも、同じように明日がくる。でもそれはいきなり消えたりもする。今生きている者たちは、リアルなものを抱きしめて生きることしかできない。もう私には、おばあちゃんを抱きしめることはできない。どんなにアスファルトを眺めても、星空を見上げても、おばあちゃんを感じない。おばあちゃんはもういない、それだけが妙にリアルだ。明日からの私は、おばあちゃんがいないという事実を抱きしめて生きるのだ。いつか彼女とおなじく私の時が止まるまで、リアルなものを抱きしめて生きる。明日を抱きしめて生きる。

それで私は、もう疲れたって言って、おばあちゃんに会いに行きたいよ。

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