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ここを、楽園にしてくれたのは、あなたよ

ぶんちゃんの、このnoteを読んですこし泣いた。

わたしは、庭文庫のことがとてもとても好きなのだけれど、まさか庭文庫を「1番好きな本屋」と言ってくれる人がいるなんて、思いもしなかった。

新刊書店、古本屋、大型書店、個人のセレクト書店、日本中に素敵な本屋さん、古本屋さんが、たくさんあり、この5年、自分の力の無さに直面する方が、多かったからかもしれない。

いわゆる新刊書店とも独立書店とも古本屋とも違い、どれのスタンダードも歩めていない感触がある。別にそれでいい、それしかないから、と思う日と、スタンダードにやることの強さや手堅さ、安心感みたいなものに、惹かれる日もある。小売、喫茶、創業、店舗、宿の文脈でも同じだ。

これは仕事に限ったことではなく、生き方の話でもある。いわゆる、都市の生活者としての生活はもうしないだろう、しかし移住者と呼ばれる人々の、その多くの方が持つ農性みたいなものをわたしは持たない。山も川も海も古民家も好きだけれど、YouTubeもwebもカップラーメンも好きだ。ずっと地元にいる人の多くのように、安定した勤め先も新築も良き車も持たない。どこにも属していないような、宙ぶらりんな気分が、たまにわたしを不安にさせる。

ここで言う人たちの属性も、わたしが勝手に見ているものだということも、よくわかっている。ふつうという幻想。ふつうの人は、1人もいないのに。でも、ふつうっていいなぁと雲を掴むように、思う日がないかと言えば、嘘になる。

ぶんちゃんが来てくれた日のことを、よく覚えている。

庭の奥で煙草を吸いながら遠くを見ている姿。
花を買ってくれた日。
縁側で珈琲を飲みながら本を読む姿。

庭文庫ではありふれた風景。
そのありふれたものを、ずっとここに置いておきたくて、庭文庫をやっている気がする。

庭文庫をはじめたとき、わたしたちには選択肢はなかった。百瀬と結婚して子どもを産むには、この方法以外考えられなかった。

たくさんの人が来て、去っていった。
今も通ってくれる人もいれば、もうずいぶん会っていない人もいる。

庭文庫をはじめたときに、決めていたことがある。
庭文庫に来なくなる人のことを、絶対に快く送り出そうということだった。
なくても、生きていけるもの。
それであれば、そうに越したことはないのだ。

わたしたちがいるだけでは、ここは楽園として成り立たない。来てくれて、本当にありがとう。そして書いてくれて、ありがとう。

わたしは、またがんばれそうです。
また、会おうね。

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