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No.224 僕の本棚より(7)「田中清玄自伝」これぞ波乱万丈の生きざま

No.224 僕の本棚より(7)「田中清玄自伝」これぞ波乱万丈の生きざま

No.223の続きと言えます。最初の4段落はNo.223の再掲載です。今回の記事では、ほとんどの箇所で個人名に敬称をつけず、呼び捨てにしています)

九藤さんが「アダム」を離れる直前1993年(平成5年)のある日のことだ。いつものように地下への階段に向かう一階の所に、九藤さんとアダムの経営者さんが、杖をついてはいるが背筋をピンと伸ばしている白髪の老人と話し込んでいた。付き添いと思われるガッチリとした若人が、3人からやや離れて立っているのが印象に残った。

僕と目があった九藤さんは「今すぐまいります。どうぞお先に」と告げてきた。僕が地下のお店に入るとすぐに、九藤さんだけが戻ってこられた。理容椅子に座ってすぐに「珍しいですね。お客さんの見送りですか。さぞ、何かの世界で名を成した方のようですね」「田中さんとおっしゃいます。その世界では有名な方のようですよ」「田中さん?角栄さんではなかったなあ」「セイゲンさん、田中清玄さんがお名前です」

「中曽根康弘・細川護煕・森進一…」失礼ながら、前述の方達のお名前に接したときは、驚きもしないし感情の昂りも何もなかったが「田中清玄」の名前が九藤さんの口の端に登ったときは、思わず「えっ!」と体が背後にのけぞってしまった。

「わたし詳しくは知らないんですが…小野さん、ご存じですか?」「ええ、すごい人生を歩まれている人ですよ。『田中清玄自伝』が発売されたばかりです。無茶苦茶面白いですよ!」あれ?「無茶苦茶」の使い方がおかしいか?いや、「田中清玄」に関してだから相応しいか?いささか、いやかなり興奮していた。

「九藤さん、田中清玄さんとは親しいのですか?」「秘書の方とはかなり親しいですよ。パーティに招かれたこともあります」こんなやりとりの結果として、僕の本棚にある「田中清玄自伝」には「謹呈 田中清玄 拝」との直筆サインが記されている。

田中清玄は1993年(平成5年)の12月10日87歳で亡くなっている。本の発行日が1993年9月10日、インタビュアー大須賀瑞夫の後書きが同年7月なので、田中清玄は「自伝」の発行後数ヶ月で亡くなり、僕が田中清玄を見かけ、そして秘書の方を通じサインを頂いたのも亡くなる直前と言える。もっとも、本人が記さずに秘書の方が書いた可能性はあるし、それはそれで面白いとも判断している。

初めて「田中清玄」の名前に触れたのはいつのことだろう?1976年(昭和51年)ロッキード事件が世間を騒がせ、「右翼の大物にして陰のフィクサー・児玉誉士夫」や「田中角栄の盟友で政商・小佐野賢治」など、政財界の闇の部分が世間にも晒された。その流れの中で、同じ右翼ながら児玉誉士夫から命を狙われた、やはり「陰の世界の大物」が「田中清玄」と認識したように思う。

その後、全学連の委員長も務めた唐牛(かろうじ)健太郎が亡くなり、雑誌の特集記事の中に「田中清玄」の名前が出てきた。右翼の大物である田中清玄が、左翼の象徴的な団体の一つ全学連に資金を提供、唐牛健太郎は田中清玄の経営する会社に籍を置いていたこともあると読んで、その人間関係の妙に何かワクワクさせられた。いつの頃からか耳にしていた「極右と極左は紙一重」を地でいくような話だったからだ。

生真面目な人生を送る人を否定する気は毛頭ないし、僕自身もまあ真面目に生きてきた方だろう。だからと言うか、世間の常識から外れた、いわゆるアウトロー的な生き方を、小気味の良いものとしてみなし、そんな物語や登場人物を好く人はいつの時代でもいるものだ。そして多勢に迎合しない側面を考えると、アウトローは、実は生き方の正道のような気もするのだ。

「田中清玄自伝」は、毎日新聞の記者であった大須賀瑞夫が、2年近くに亘るインタビューをまとめたものだ。とにかく田中清玄が関わった人物の多彩さ、社会の転換期に関わり、世界のリーダーたちと直接交渉できる人脈と胆力には圧倒される。

1906年(明治39年)北海道函館近くに生を受けた田中清玄の家系は、会津藩の家老の地位にあった。戦前、旧制弘前高校在学時に革命運動を志し、後に共産党武闘派時代の書記長として活動、1930年(昭和5年)治安維持法違反で逮捕された。母愛子は、息子の田中清玄が共産主義に溺れ家紋を傷つけたことを嘆き、割腹自殺をする。

戦中の1941年(昭和16年)まで12年近い獄中生活を送る中で、共産主義に懐疑的になり天皇主義者へと転向する。革命運動中に出会ったひで夫人との獄中結婚を経て、出獄後に臨済宗の禅僧山本玄峰の元で修行をする。山本玄峰は政財界に広く支持者がいて、ポツダム宣言受諾を陰で支えた人物でもある。その関係で、田中清玄も人脈を広げていく。敗戦後すぐに昭和天皇と会い、天皇制の存続を強く直言したという。

建設会社を立ち上げて戦後復興の仕事を手がけ、その活動範囲はタイやインドネシアにまで広がる。GHQの上層部、政財界人たちとの付き合いを通し影響力を増すにつれ、敵対関係も生まれてくる。1960年(昭和35年)日米安保条約改定を推し進めた岸信介と、岸の盟友で後にロッキード疑獄事件で有罪判決を受ける児玉誉士夫たちと、田中清玄は相容れなかった。

戦後の混乱期、土木建設関係のみならず様々な分野で反社会的勢力(平たく言えば「暴力団」)の力が大きかった。ヒロポンなどの覚醒剤は町の薬局でも購入できた時代を経て、販売禁止となった経緯がある。薬物販売を財源にしていた右翼団体や暴力団に対抗して、田中清玄が日本最大の反社会的勢力山口組三代目田岡一雄などと共に「麻薬追放・国土浄化連盟」を立ち上げ、社会党の国会議員も務めた婦人運動家市川房江が、有名暴力団組長も関わるこの団体に賛同している事実もまた興味深い。

前述したように、全学連に資金を提供したりしたことから起きた軋轢もあった。1963年(昭和38年)東京のど真ん中東京會舘で衆人環視の中、児玉誉士夫が手配した刺客の銃弾三発が、田中清玄を捉え瀕死の状態に陥れる事件も起こった。当時のマスコミのほとんどは、政治的背後関係などに言及せず、暴力団の抗争の一つと報道したに過ぎなかった。

政治経済界との人脈を通じて、田中清玄はインドネシアやアラブ諸国の産油国との関係を早くから築いていた。現在のアラブ首長国連邦の指導者たちとのパイプは、海上油田の開発などを通じて特に深いものがあり、戦後日本の高度経済成長時代の終焉の端緒となった1973年(昭和48年)石油危機の際には、アメリカの思惑も乗り越えて、中東産油国からの原油輸入の獲得に尽力した。

世界の要人たちとの交流にも触れてみよう。ヨーロッパの名門ハプスブルク家の末裔にして、EU(ヨーロッパ連合)の父と称されることもあるオットー大公(オットー・フォン・ハプスブルク)の信頼も篤く、日本の外務省とやりあって、大公を日本に招いてもいる。大公との縁から、フリードリッヒ・ハイエク経済学教授との交友関係を結ぶ。教授がノーベル賞を受けた時に、メインテーブルに着いた唯一の日本人が田中清玄だった。

毛沢東体制より続いた中国の社会に、現在の市場経済政策を取り入れた指導者鄧小平と、1980年(昭和55年)中国で会った田中清玄は、この時、天皇の訪中を持ちかけて、後に実現もしている。世間的には、右翼と判断される田中清玄だが、政治家の靖国神社参拝には一貫して反対の立場をとっていた。この事実も中国側の態度を軟化させた一因のようだ。右翼といえば、靖国神社参拝を押し進める団体と見なしていた自分の偏見と知識の浅薄さを考えさせられもした。

田中清玄は、政界の黒幕、石油の匂いに敏感な利権屋、右翼の大物などとも言われ、田中角栄・中曽根康弘などの総理大臣経験者をはじめとする政治家や官僚たち、戦後からの日本の経済を支えた財界のリーダーたち、そして世界の要人たちとも交友関係を築いてきた。そんなひとりの人間の生き様が描かれている「田中清玄自伝」を読めば、右翼と呼ばれる勢力・反社会的な勢力・共産主義勢力・保守勢力をそれぞれ一括りにして論ずるのは愚行であり危険なことと気付かされる。

田中清玄をはじめ、ここに登場する戦後の混乱期を乗り越えていった器の大きな人物たちの共通点に惹かれる。右だ左だと相手の思想とは違えど、己の中での「清」に同調し「濁」は受け付けない「精神の清廉」を感じるのだ。低迷している現在の日本の政治、経済、教育学問などの分野に関わる人々も、魅力あるこの先人たちの生き様から学ぶべきことも多々あると信じる。

つい先日、九藤さんのお店に散髪に行った時、尋ねてみた。「九藤さんは、田中清玄の散髪はしていたんですか?」「中曽根さんもそうでしたが、オーナーがいるときはオーナーが鋏を握りました。でもほら、小野さんもご存知のように、オーナーは他の事業のことが忙しくて、いないことも多かったので、私が散髪することも多かったですね」「田中清玄って、どんな人でしたか?」「何かオーラがあると言うか、ちょっと怖いような、迫力がありましたねえ。よく電話がかかってきましたね。秘書の方の判断で取り次いだりしました。英語やフランス語、ドイツ語でも話していましたね」「フランス語やドイツ語でも!それは凄いなあ〜!」

20代の時、4年近くフランスで過ごしていた経験もある九藤さん、ちょっと声を落として「ドイツ語は分かりませんが、フランス語はそこまでお上手ではなかったですね…」思わず笑ってしまった僕が続けた。「九藤さ〜ん、うまい下手はともかく、電話で意思の疎通ができるの、やっぱり凄いですよ〜。日本人の語学学習が目指すべき大きなヒントがありますよ、この話の中には!大事なのは人間力で、言葉の巧拙は後回しでもいいですよ!」「小野さんも熱いですねえ。田中さんの自伝は読んでいません。私にとっては、ちょっと怖いお客さんの一人でした、かなあ」

九藤さんと話をしたら、田中清玄が何か身近な存在に思えてきて、「さん」をつけなかった自分の失礼を、少しばかりだが、省みたりした。


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