マゼンタの憂鬱
インクジェットプリンターの蓋を上げ、郵便で届いたばかりの新しいカラーインクに入れ替える。蓋を閉めると、ガシャンと重たい音がして、インクを飲み込んでいった。出力したいデータを選び、プリントアウトする。
だけど、出てきたものは、全体に黄味がかった色の偏りのあるものだった。新しいインクに入れ替えたばかりだというのに、出るべき色に仕上がってこない。目詰まりかと思って、チェックパターンを出してみる。すると、CMYKの4つのパターンのうち、マゼンタは1滴も出ていなかった。ノズルをクリーニングし、再度出力する。しかし、マゼンタは少しも滲んで来ない。
俺が悪いんだ。
節約のために、通販サイトから一番安いインクを選び(ただし、純正を選んだ)、貯まっていたポイントをつぎ込み、ほとんどタダも同然で手に入れた。そのインクは、マゼンタがイかれていて、思ったような出力はできない代物だった。俺が悪い。きっと、そうだ。
と、自分を責めながら、購入先の店舗のサイトのレビュー枠に、最低評価を与えて晒してやろうと指がキーボードを叩いている。瞬間、パソコンの画面に映った自分の顔を見て、萎えた。パソコンもプリンターも消して、その必要だった資料を諦めることにした。
そのまま、俺は、なりたい俺から遠ざかっていくような気がした。
朝から、隣の家では大音量でワイドショーが流れている。児童虐待、タピオカ、台風、星占い。混濁した話題を、神妙な顔をしたコメンテーターやリポーターが、他人のことばかり話している。
外は、低気圧の重い空。窓を閉める。隣の家から空気が流れてこないように。
それから、俺は急に梅干しが食べたくなって、冷蔵庫を開け、父親が飲んで帰って来た時のシメのお茶漬け用にストックしてある梅干しを一つかじった。さっきのイライラの棘が、少し落ち着いた気がした。
気を取り直して、台所のテーブルで新聞を広げる。どの記事も読むための興味が湧いてこないから、折込チラシも広げた。
すると、スーパーのチラシの特売のトマトが目に入った。同時に、眩暈がした。
あるべき色がない。
不審に思い、目を凝らしていく。チラシの真ん中に堂々と掲げられたいつもは真っ赤な煽り文句にも、色がない。「赤」がないのだ。
マクドナルドも。
ユニクロも。
決算セールも。
まさか、と心を落ち着けるため、もう一度、冷蔵庫の梅干しを手に取る。赤い。一口かじってチラシを見ると、マクドナルドのロゴが一瞬だけ浮かび上がった気がした。
それから棚の戸を開け、買いだめしてあるトマトジュースを取り出した。ラベルのトマトに色はないが、ジュースは赤い。急いで蓋を開けて、一気に飲み干した。
じわり、とラベルのトマトの「赤」が蘇ってくる。
マゼンタが出てこなかったのは、「ほんとうに」俺が悪かったからなのか?インクの目詰まりじゃなかったということか?
心底、ゾッとしているのに、俺の頭はまだトマトジュースを飲みたがっている。だから、2本目のトマトジュースを飲み干した。頭が冴え渡っていって、心臓がバクバク言い出した。
「この、吸血鬼のなり損ない」
と、俺はつぶやき、俺の足はもう部屋を飛び出していた。