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ニュー・オータニ

俺は、交差点のど真ん中にいた。近くから遠くから、獲物を狙う獣のように見えない視線を、四方八方に感じていた。俺の思考は止まっていて、ただひたすらに、いてはいけない場所にいることだけはわかっていた。

しばらくすると、けたたましいサイレンの音が聞こえてきて、まもなく止まった。それから誰かを呼ぶ声、怒鳴り声、なだめるような声がかすかに近づいてくる。

俺は身体に力を入れることができない。笑いたいのに笑えない。俺の身体を囲っている鉄の板はくしゃくしゃになっているらしく、やがてこじ開けられ、俺の身体が誰かによってどこかへ運ばれていく。

一瞬、空が見えた。
青い。
東京の空と福井の空が混じり合っていく。
どんどん頭が重くなってきて、そのあとのことは思い出せない。闇。

何時間たったのか、目を開けると、見えるものは天井だけ。たぶん、俺は病室なんだろう。それにしても、病室の天井はこうどこも同じなんだろうか。白くて、不規則に穴が開いていて、まるで虫が這いずり回って喰われてできたような模様。

その模様を数え出したところで、今日、約束をしていたことを思い出した。16時に駅前のシアトルズベストコーヒーで待ち合わせの約束だった。今、何時だろうか?俺の荷物はどこへ?

ノック、ノック。
「オータニさーん、入りますよぉー」
そっと扉を開けて看護師が入ってきた。そのかすかな訛りが、俺は福井に帰ってきたのだということを知らせてくれた。返事をすることにためらっていると、看護師が近づいてくる。女性で、若くて、かわいい。
「あら、目ぇ覚めたんですねぇ。お身体いかがですかぁ?」
天井から身体に意識を転じてみる。右肩に鈍い痛みはあるが、そのほかは寝て起きたばかりの気持ちの具合と何も変わらなかった。
「俺…事故ったんですか?」
看護師からの質問には返答せず、逆に俺は質問をした。
「そうなんですよぉー、正面衝突やったみたいですねぇ。覚えてないんですか?車はくっしゃくしゃやって。でもオータニさん、ほとんど無傷なんやよ。ラッキーやったねぇー」
福井弁の能天気な抑揚は、嫌いじゃない。そして、看護師は、女性で、若くて、かわいい。
「あの…俺の鞄とかって、どこにありますか?」
「あぁ、ここにありますよぉ。…あとは保険屋さんとのやりとりがたいへんやの。今日一日検査入院して、問題なければすぐ退院できるみたいやで」
「はぁ…ありがとうございます」
看護師は、俺の身体に異常がないか、検温をして、血圧を測って、病室を出て行った。

昨日の夜、東京で、俺の身体はくらげのように揺れていた。
大好きな人と、大好きな音を聴きながら、水槽の中にいるように、舞い上がる埃さえも愛しい時間の中で、ゆらゆらと揺れていた。
早朝のゆるやかな太陽が顔を出すまで、ゆらゆらと揺れていた。
気がつけば、俺の車は、交差点のど真ん中で大破していた。
日付と、場所との境目が見えなくなっていた。

時計は、15時を過ぎている。鞄の中からケータイを取り出し、今日出会う予定だった人にLINEを送る。
「すみません。福井へ帰る途中に事故に遭ってしまいまして(汗)別の日に変更してもよいでしょうか?」

退院してからの数日間、病院と保険と警察と家族とのやりとりを繰り返し、車を失った俺は、路面電車に乗って駅前のシアトルズベストコーヒーに向かっていた。約束が延期になり、ようやく出会えるその人は入り口に立っていて、こちらに手を振る。
「オータニくんですか? 佐藤です。よろしくお願いします」
東京の知人を介して会うことになったその人は、福井の駅前で小さな本屋をしていて、俺と同じ大学を出ていると聞いた。10歳年上で、ショートカットで丸顔で猫背の女性だった。その人はあたたかいチャイを頼んだ。

俺は何を話せばいいのかわからず、東京を出る前に会いに行った「ラッキーオールドサン」の話をした。ここちよい音楽が好きで、その音楽を奏でる人が好きで、その人たちといられる空間が好きだということを話した。至極真面目に、淡々と。チャイの人はうんうんと頷きながら俺の話を聞いた。

「じゃあ、うちの店の音楽担当になったら?」
チャイを飲み終えたその人は、突如そんなことを言い放った。

何を言い出すのだろう、この人は?
なのに、もう俺の頭の中には、ゆらゆらとくらげのように「おんがく」という言葉が漂い始めていた。

東京に戻り、いつも通りデスクに向かい背中をかがめながら、シンクの大きさや引き出しの数やレンジフードの種類や右利きか左利きかを考えながら顔の見えない誰かのために、たくさんの四角い図面を引く生活にも戻った。

誰かにとって必要な仕事には間違いない。だけど、あの交差点で、何かが死んでしまった。身体は無傷だったけど、俺を支えていた何かが外れ、死んでしまったのだった。死んでしまった何かの代わりに、ぽっかりと穴があき、その穴の中からチャイの人がカードを切ってこちらに差し出している。

「怖い夢を見た次の日は 素敵なもの 見つかるから」

そのカードが、JOKERではないことを祈りながら、俺は恐る恐る受け取る。そして、デスクのパソコンの電源を切り、荷物をまとめ、福井行きの夜行バスに飛び乗ることにした。