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夏目漱石の名作に登場するお茶・紅茶への思い 1

Ⅰ 漱石とお茶 1


 
 夏目漱石が生み出した数々の作品の中から、お茶が印象的に使われているシーンを紹介していきます。お茶好きで知られる漱石が綴るお茶の味わいに触れてみましょう。
 
❶『草枕(くさまくら)』
 
 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」からはじまる『草枕』は、世間の住みにくさを嫌い旅に出た青年画家を主人公に、非人情の境地を描いた夏目漱石の初期の作品です。
 『草枕』は現在ほぼ忘れられた風流韻事「煎茶」をみごとに描き出しているお茶のシーンが多いことで有名です。文字を見ているだけだと、難しい漢字が並んでいると思うかもしれませんが、音で聞くと心地よく聞こえてきませんか? これは、美文(びぶん)という近代文学の文体系統の一つを意識して書かれたもの。美文は、耳で聞いた心地よさを重視する文体で、音やリズムが流れるように響き、うっとりするような聴き心地です。『草枕』の主人公たち3人がお茶を飲むというそれだけの場面が優美です。
    また、『草枕』の文章では、お茶「一しずく」を細部まで描いています。漱石は、“凝縮した一滴を味わったら、それは全体を味わったことになる”という考えを持っていました。人生を長くだらだら味わうより、凝縮した時間、一滴を味わうほうがよいという思想は、『草枕』(八)に描写された凝縮したお茶の「一しずく」に通じるものがあります。
 
 「濃く甘(あま)く、湯加減(ゆかげん)に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味(あじわ)って見るのは閑人適意(かんじんてきい)の韻事(いんじ)である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭(ぜっとう)へぽたりと載(の)せて、清いものが四方へ散れば咽喉(のど)へ下(くだ)るべき液はほとんどない。ただ馥郁(ふくいく)たる匂(におい)が食道から胃のなかへ沁(し)み渡るのみである。歯を用いるは卑(いや)しい。水はあまりに軽い。玉露(ぎょくろ)に至っては濃(こまや)かなる事、淡水(たんすい)の境(きょう)を脱して、顎(あご)を疲らすほどの硬(かた)さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。」(『草枕』八)
 
解説
 引用したのは、主人公の青年画家が、とあるお寺で和尚らとともにお茶をいただく場面。流麗な文章で、「一しずく」に凝縮されたお茶のおいしさが見事に表現されています。「閑人適意の韻事」とは、風流な人が気ままにする遊びのことであり、濃く甘いお茶を味わうことは、風雅なものであり、お茶はゴクゴクと飲むものではなく、じっくりと味と香りを楽しむものだと述べています。  (つづく)

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