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私は15年ほど、ずっと自分の顔が嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。

「誰しもが多少なりとも容姿にコンプレックスを持っているし、みこちゃんは美容やファッションが好きだから余計に顔に対するこだわりが強いんだろうね」

と、悪意のないセリフを何度浴びせられてきたことか。

私の言う「顔が嫌い」はそんな些細なものではありません。

あなたは、お化粧の練習に毎日2時間かけていた時期はありますか?
自慢のロングヘアを少し否定されただけなのに、公の場で涙してしまったことはありますか?
日焼けした肌が受け入れられずに夜通し泣き続けて、一睡もできなかった経験はありますか?
美容整形の症例写真やリスクを調べているうちに、1日が経っていたことはありますか?

恐らくほとんどの人の答えがNOでしょう。
こんな辛い思いをする人は少ない方が良いですし、共感や理解は一切求めていません。
認知だけはしていただいた方がお互いに生きやすくなると判断したため、こうして筆を執りました。


醜形恐怖症

さて、先述の質問に目を通し「病気じゃん」と感じた方へ。
単刀直入に申し上げます。病気です。
身体醜形障害(通称:醜形恐怖症)という言葉はご存知でしょうか。
人口の約2%が罹っているとされるこの精神疾患について、以下に概要を記します。

醜形恐怖症とは自分の容姿を「醜い」と感じてしまい、過剰なダイエットをしたり鬱状態になったりする精神の病です。原因は諸説云われていますが子供の頃に容姿に関することで虐められたり、親から容姿を貶されたりなど、他人から傷つけられた事がトラウマとなって発症する場合が多くあります。あまりにも高い理想と現実のギャップに悩まされている人が多いため、他人がどれだけ「美しい」と言ってもあまり治癒の効果はありません。

私は病院で正式に診断を受けたことはありませんが、説明を読む限りではかなり近い状態だったと考えています。


言葉の呪い

私は歯列矯正を済ませていますが、矯正前は典型的な乱杭歯の持ち主でした。

小学校低学年の頃のことです。乳歯から永久歯に生え変わり、笑ったときに八重歯が覗くようになった私の顔を見て、母がいつも放っていたセリフがこちら。

「笑った顔に品がない」

わずか8歳の少女は、この言葉を受けて傷つくことはありませんた。
怒りを感じることもありませんでした。
ただ、自分の笑顔には品がないんだと、素直に受け入れてしまいました。

世間には「笑顔はだれでも魅力的だ、笑っている顔は素敵だ」という風潮があります。
誰もが素敵であるはずの笑顔を、品がない、みっともない、頭が悪そうだと言われ続けたのです。

謙遜でもなく、自虐でもなく、
わたしって品がないんだな。かわいくないんだな。
と無意識のうちに認めていました。

気づいた頃には、聞こえてくる悪口がすべて自分に向けられているのではないかと思い込むまでになっていました。

そして大学時代には、序盤で述べた通りの拗らせっぷり。

どんなに大切な人から可愛いと言われても、どんなに多くの人から綺麗だと言われても、私の心に開いた穴が塞がることはありませんでした。


運命の出逢い

あるとき電車に乗っていると、素敵なお着物に身を包んだおばさまに声をかけられました。

「お綺麗ね」
「はっきりとしたお顔立ちね」と。

見ず知らずの私にこれを伝えるためだけにわざわざ立ち上がってくださったことに驚くとともに、とても光栄に思いました。

抜かりなくセットされた御髪も、髪色に合わせたオリーブの色味の睫毛も、オリジナルの刺繍が入ったお着物も、そのお方は「只者ではない」という雰囲気を漂わせていました。なぜ公共交通機関を利用していらしたのかすら不思議なくらいです。

お話を聞いたところ、どうやらインテリアの道に50年以上従事するデザインのプロフェッショナルとのこと。
見た目からも経歴からも美意識の高さが伝わってくる、そんな方がわざわざお声かけくださったのです。

そしておばさまは電車を降りる際、

「私はもう85歳で先が長くないの、日本の未来をよろしくね」

とおっしゃいました。
まず年齢に驚愕し、次になぜ突然そんなスケールの大きい話題を振るのだろうかと疑問に思っていると、おばさまは一言添えて去って行きました。

「国を動かすのは、いつの時代でも美しい人だから」

この言葉には衝撃を受けました。

正反対の概念ではありますが、傾国の美女、と似た意味合いだと捉えて良いのでしょうか。
真偽はともかく、自分がそのような最上級の形容に値するとはつゆほども思ったことがなかったため、このとき私の心の中は信じられない気持ちと信じたい気持ちが共存する不思議な状態でした。


さて、醜形恐怖症の概要の中に

あまりにも高い理想と現実のギャップに悩まされている人が多いため、他人がどれだけ「美しい」と言ってもあまり治癒の効果はありません。

とありますが、素敵なおばさまからの勿体ないほどのお言葉には治癒効果があったようです。高すぎる理想を持っていても、その更に上を行く賛辞を呈されると話は別だということでしょうか。


顔という作品

顔を、生まれもったものであり変えることのできないものであると捉える人も多いかと存じます。
だからこそ、外見について言及するのは失礼にあたるという風潮が存在する。外見の重視と内面の軽視がセットだという風潮が存在する。

一方で顔を、内面のいちばん外側のものだとする捉え方もあります。
魅せ方はもちろん、造形すら自らの力で変わる、と。

そして、私は後者の捉え方を好んでいます。

私にとって自分の顔とは、努力によって作り上げたひとつの芸術作品なのです。

つまり先述のエピソードは、以下の意味合いも持っていることになります。

私の苦労も葛藤も知らない人が、
努力によって作り上げたこの作品を、
先入観を持たず作品だけを見て、
良いものだと評価してくれた。

なぜ、どんなに大切な人から可愛いと言われても、どんなに多くの人から綺麗だと言われても、心の穴が塞がらなかったのか。

それは、彼らが私の努力・苦労などの言わば「作品を形成する過程」を知ってしまっている存在であるから。
良くも悪くも、彼らから発せられる言葉が「作品」に対する純粋な評価ではなかったから。
私はそう解釈しています。


塞がった心の穴

頭では優しさを受け止めつつも、
心では優しさを受け取れない。

これこそが、心に開いた穴の正体だと考えています。
穴が開いているから、優しさを受け止めることができずにポロポロと零れ落ちてしまう。

その穴が、やっと塞がりました。
名も知らぬ素敵なおばさまのおかげで。
もう二度とお会いすることはないでしょうが、心より感謝申し上げます。


あとがき

大学時代に間近で私の苦悩を見ていた友人たちにこの一連の話をした際、
「みこちゃんは死ぬまで闘わないといけない運命なのかと思ってたよ」
「解消できてよかったね、おめでとう」
「神様がそのおばさまをみこちゃんと引き合わせてくれたんだね」
など、優しく祝福してくれました。

加えて、あまりにも上手くできた話だから信じてもらえない可能性も考えた旨を打ち明けると、
「信じるに決まってるじゃん」としたうえで、
「もしそのおばさまが幻だとしたら、もっと素敵な話になるね」
とまで言ってくれました。

結論、マイフレンズ最高ぽよ…!!!



最後までお読みくださりありがとうございました。
それではお元気で。


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