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余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

栄耀栄華の粋を極めたといってよい森鴎外。私はあの乾いた優しい目が好きだ。

神は死んだとニーチェは叫んで発狂したが、森鴎外もまた、神も仏も、もともといないことを知っていた。

そして、混じりけのない心で先祖のお墓に手を合わせることができた人。

知っていたのに「しかし」ではない。

しかし、混じりけのない心で先祖のお墓に手を合わせることができた人。

この「そして」と「しかし」には重大な違いがある。それを気づかせてくれるのが、森林太郎のであり、森鴎外のであった。

本当は自分の生き方と違うことを、自分の心を騙すようにして、生きる信条にすり替えるキザなナルシスト人は、市井の凡人の中にたくさんいる。彼らは信じてもいないものに手を合わせることに、大人の喜びを感じて悦に入ることができるのだ。

国家であれ、企業であれ、家庭であれ、妻であれ、我が子であれ。何も信じられないくせに、信じたふりをしている。

そして、信じられない人を落語者とみなし、良い企業人、良い家庭人、良きおっと、良き親を演じる。そしてそのときに出てくるのが「しかし」である。

信じられない神をバカにしながら、それを許容することには二重の自己満足がある。

国家よりも、企業よりも、家庭よりも、妻よりも、我が子よりも自分が大切ということをおおっぴらに肯定できる。

しかし、これではなんだか自分がバカみたいに人から見えるかも知れない。だから、バカにした対象を返す刀で慰撫しているのだ。おれは、国家も、企業も、家庭も、妻も、我が子も愛している。信じてもいないくせに。

おれは自分以外全部嫌いだ。しかし、おれはすべて愛してる大人だ。

しかしいったい、信じていない愛などというものはあるのだろうか?非常に巧妙な自己欺瞞がここに芽生える。あたりまえだ。信じていない愛などありえないのだから。

愛国者、企業愛、愛する家庭、愛妻家、子煩悩、彼らのそれは、どこかみんなねじれている。

彼らの合言葉は「しかし」だ。

せめて返す刀で、信じていないそれらの神をぶった切って欲しいものだ。


森鴎外は、そして…

いつでも脱げる覚悟がある人にとって、軍服は重くない。だから鴎外は文学者としても偉業を成し遂げた。逆に言うと、いつでもペンを折れる覚悟があったからこそ、鴎外は陸軍軍医総監が務まった。

そして、森鴎外は決してペンは折らないし、そして、森林太郎は決して軍服を脱がない。アンデルセンを訳して子供たちの啓蒙に資する一方で、衛生学の論文を陸軍省の中に回覧させて、戦場での疫病を激減させる。

人生を簡単にやめられないように、文豪であることはやめられない、エリート軍人であることもやめられない。そして、アンデルセンが手に入ればアンデルセンを、最新医学論文があればせっせとそれを翻訳した。

彼にとって、ドイツ語とはそれ以上のものでもそれ以下でもなかった。

文豪であることも、軍人の栄誉を極めようとも、ドイツ語の達人であろうとも、そんなものはこれっぽっちも信じていなかった。

ちょうど神や仏を信じないようにだ。

そして…

彼は文豪であり、軍人であり、ドイツ語の達人であった。

文豪を信じず、軍人を信じず、ドイツ語の権威を信じず

しかし…ではないのだ

「しかし俺は俺の生を生きる」そんな自然主義文学のエセ文士は沢山いたし、そんなひねくれた不良軍人は沢山いた。ドイツ語を武器に帝国大学で教鞭をとる俗物もたくさんいた。

そしての人、鴎外/林太郎は恐らく、自己不安感とは無縁の人であったと思うが、自己肯定感はそれ以上に無縁だったはずだ。

自己不安感を犬が首を左右にふるようにして無理に打ち消すのが「しかし」であり、長続きのしない自信が「しかし」の後のナルシスティックな自己肯定感だ。

鴎外/林太郎はそして、最後にすべてを脱いだ。

凡人は自分の小さな取るに足らない特徴を才能と信じるが、鴎外にとって違った。才能なんて自分のために使うものではない。人のために使うのが才能だ。自分のために使う才能などたかが知れてる。

しかしは自己克己のバネだ。そしては、主君のいない現世への奉公だろうか。

その、自分の大切な人たちとの役割を果たす現世は、もうじき終わろうとしている。

そして…自分に戻ろう…。


余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

むろん彼は、承認欲求などとは無縁であったろうが、いうまでもなく自己肯定感などとも無縁だった。

彼の人生には戦いがなかった。
文壇の論争を数々仕掛け、陸軍では頑固な鼻つまみ者。
しかし、彼は戦ってなどいなかった。戦わなくても勝てたわけではない。戦うことなんてバカバカしいと思っていただけだ。

極端に言えば、森鴎外、森林太郎には他人と違った自分だけの才能なんていうつまらないものは必要なかったのだ。

だから自分すら戦う相手ではなかった。彼の余りある才能がそうさせたのでは決してない。


余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

寂しい言葉には谺して聴こえてこない

これは、ある上質な静謐だ

最上級の静謐だけが錯覚させるような

岩を打ち付ける鹿威しの鋭利な音が

als ob あたかも鳴り響くようにかのように

ただ耳を錯覚させるだけだ

自分も他者もいない。

そして…誰もいなくなった

あるいは、最初から何もなかったのかも知れない。

かのように…。


余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス


久しぶりに『舞姫』を読みながら…思い浮かんだことを書いてみた。

異国での大恋愛すらも、帰国すれば大日本帝国という虚構になんの疑いもなく消えていく。

ただし、これは鴎外が薄情だったのではない。あの人ほど慈愛に満ちた人はいないだろう。

鴎外にとっては、何もかもが「そして」という「かのように」の風景の中のひとつだったのだろう。

鴎外はそんな目をして、私をあの乾いた優しい目でみる。

しかし、こちらからは見えない。鴎外は目を合わせてくれない。鴎外の写真や肖像画はいつも右の先を見ている。

右の先には何があるのだろう、私はついその視線の先を追いかける。

忘れかけていた風景がそこにいつもある。

私は嬉しくなって、今後こそ鴎外の目を見ようと首を反転させる。

そして、そこには誰もいない。寂蒔とした谺が聞こえるだけだ。

余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

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