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生き残ろうとするんじゃなくて

先日、大学病院に行ってきた。
私が20歳の頃から38歳になるまで、3ヶ月ごとに経過観察で検査していた病院であり、旦那が亡くなった病院だ。
私が20年近くその病院に通っていたのは、飲み薬が開発されるのを待っていたからだ。
だからある意味、旦那も私も、絶対に私の方が早く居なくなるだろうと思っていた。
その大学病院に運びこまれた旦那は脳の出血を止血する手術をされたのだが、最初に運ばれた地元の病院はお盆休み中で4時間も待たされ手遅れになって、脳死状態になってしまった。
その後手術をした、その大学病院に来た義父母のために病院内のコンビニから食べ物を買って待合室に行ったとき、検査待ちや会計をする他の患者さんを見ていたら、「うらやましい」という気持ちでいっぱいになったことを思い出した。

「ほんの数時間前まで、運転してたんだよ、旦那。
昨日まで普通に会社に行ってたんだよ。
なのにさ。
車の点検に行ったあと、突然頭が痛いって吐いて、気を失っちゃったんだよ。救急車呼んだら、いっぱいだから待ちますよって言われたんだよ。それ待ってたら脳死になっちゃったんだよ。なんで最初に診てくれなかったんだよ。優先順位考えるのが仕事なんじゃねーの。マジで馬鹿じゃねーの…

外来に居る患者さん達はまだ自分で食べたり、話したり出来るじゃん。まだまだ生きている間に出来る事、やりたいことを考える時間があるじゃん。
そう、時間があるじゃん。…
いいなぁ。」

脳死状態になって、手術をしたお医者さんに1週間くらいしか生きられないんだと言われた。
その間に覚悟を決めて、準備をしておくようにと。
会社に連絡し、役所を周り、私の免許証を更新しにいき、車を売り、まだ生きている旦那のお葬式の準備をし、1週間後。
やっと時間が出来て旦那のベッドの横に座った時、【あと1日長く生きたとて、あと1ヶ月、あと3ヶ月、あと半年長く生きたとて、旦那とはもう一緒に車に乗ったり、娘と公園で遊んだり、ご飯を食べたりもできないのだ】とお互い理解した。

そして、本当の生きる意味とは、そこにあるのだと気づいた。
何のために生きているの?
管に繋がれて、自発呼吸も出来ない。
話をすることも出来ない。
食べることも出来ない。
これって生きているって言えるの?
じゃあ、例えばあと10年生きられると自分で決める。
10年後の誕生日が終わるときに眠ったら私の人生終わりって決めるとする。
そうしたら、私、この人生で何がしたい??

…今までは、旦那が働いてきてくれたお給料の使い道は、ほとんど消費することばかりに使っていた。
仕事で溜まったストレスを解消するために何かを買って消費する。ショッピングモールで買い物をする。疲れて面倒だからと外食する。そもそもそんなにたくさん食べる必要あるのかな?…

創造の喜び】
会いたい人に会えること。
自分の話を誰かに聞いてもらい、誰かの話を聞くこと。歌うこと。踊ること。笑うこと。泣くこと。怒ること。こんなふうに悲しむこと。
美味しいご飯を作ること。食べること。
美味しいコーヒーを淹れること。飲むこと。
絵を描くこと。描いた絵を見ること。
曲を作ること。演奏すること。それを聴くこと。
手芸をすること。作ったものを使うこと。
ゲームを作ること。ゲームをすること。
物語を作ること。物語を演じること。物語を観ること。

その行動の1つ1つが生きているってことで、幸せで、それをやるためにわざわざ肉体をもって産まれてきたのかもしれない。

消費の喜び】
その中でも、消費すること…
自分のエネルギー不足で、そのエネルギーを補うための行動のほとんどが、何か物質を買って一時的に満足することが多い。
新しい車を買う、大きな家を買う。新作のバッグを買う。新作のコスメを買う。服を買う。靴を買う。テーマパークに行く。
新しい車に「誰と」乗るの?
大きな家で「どんな風に何をして」暮らすの?
新作のバッグに「何を入れて」行くの?
新作のコスメを、服を、靴を「いくつ持てば」満足出来るの?
誰かに与えられた喜びのために消費して、それを手に入れるためにまた働かなきゃならない。
だからその家で家族とのんびり過ごすことも出来ないし、大きな車は車庫に入ったまま。

消費してばかりの人生だったのを、創造する人生にシフトチェンジしようと思えるようになったのは、旦那のおかげだな。

そして、沢山物を所有すること、長生きすることを良しとする世界線からは離れて、
この人生で何がしたいか」
「今日死んでも、後悔なく、面白かったと思える人生か」の世界線に移行することを決意した。

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