蒼色の月 #136 「勘違い(回想)」
夫が家を出る前のこと。
その頃はまだ、私は夫の不倫を少しも疑ってもいなかった。
夫が所長になりたてで生活も変わり、夫も私も初めてづくしになにかと気ぜわしい日々だった。
夫という人は、子供達の入学式、卒業式、授業参観、部活の保護者会の集まり、クラス行事等々、仕事が忙しいと言っては出席したことがない。いや、15年間、子供3人で2回くらいはあったか。
何度も出るように言っても応じない夫。
不満に思いつつも、しかたがないなと最終的にはそれを許してきた私もだいぶ悪かったなと今は思う。
それは、朝ご飯を食べながら、悠真と私が明日の三者面談の話をしていたときのこと。
「その3者面談、俺が行ってもいいよ」
突然夫がそんなことを言い出した。
「えー珍しいね。どうしたの?行ってもらえれば私は助かるけど、でもこれ明日だよ。所長になったばかりで、忙しいんじゃないの?」と私。
「午後は空いてるから大丈夫。悠真がどんな高校に行っているのか見てみたいし」
今さら、どういう風の吹き回しだろう。
浅見設計事務所を自分が背負うことになって、夫もいろいろ思うところがあるのかもしれない。
今まで全く行かなかったものを、行ってくれるというのだからありがたい。
「悠真はどう?お父さん、こう言ってるけど」
「俺は別に、お父さんでもお母さんでもどっちでもいいよ。お父さん、しかし珍しいね。俺の学校に来るなんて、小学生のクラス行事の帰りに迎えに来たときぶりだよね」
悠真はそう言って笑った。
翌日夫は背広に着替え、悠真の高校へと出かけて行ったのだった。
その日の夕方のこと。
悠真が帰ってくるなりすごい剣幕で言った。
「お母さん、信じられないよ!ありえないいよ!お父さんひどすぎ、最悪!」
悠真がこんなに怒るのを、私は久しぶりに見た。
「え?どうしたの?まさかお父さん、時間間違えて学校行ったとか?教室までたどり着けなかったとか?」
「そんなんならまだいいよ!」
元々穏やかな性格の悠真、気を落ち着かせてよく話を聞いてみるとこうだった。
時間通りに悠真の教室に現れた夫。
先生に促され教室に入ると、悠真と先生と夫と机を囲んで椅子に座った。
悠真の担任は、夫と同年代の男の先生。
初めて顔を見せた夫に、先生はいろいろと悠真の成績や頑張り具合など丁寧に説明をしてくださったらしい。
問題はその時の夫の態度。
夫は椅子にふんぞり返って足を組み、偉そうな態度で話を聞いていたというのだ。そんな父親を横目に見ながら、悠真は冷や汗が出たのだと言う。
その上先生の話が終った頃
「先生、うちはね。設計事務所を経営してるんですよ。経営者の家系なんですよ。だから息子はもう将来が約束されてるんですよ。そこそこの大学に入れれば、息子は就活しなくていいわけだから他のお子さんとは違うんです」
それはいったいなに?
なにをわけのわからないことを。
経営者家系?
従業員5人の吹けば飛ぶような零細企業じゃないか。
そんな小さな設計事務所を経営してたからってなんにもすごくない。
しかもその事務所、あなたは父親からそっくりもらっただけでしょ。
うちの生活レベルだって、中の中じゃない。
恥ずかしい。
穴があったら私が入りたい。
私ですらそう思ったのだから、その場に居合わせた長男はどれだけ恥ずかしかったことだろう。
この頃の夫は所長になり、大きな会社の社長さん達と面識ができ、まるで自分が大会社の社長さんと同等になったかのような勘違いをしているようだった。
「お母さん、俺明日からどんな顔して先生に会ったら良いかわかんない。もう絶対に!絶対に!お父さんが学校に来るのはお断りだからね!」
私が息子でもそう言うだろう。
元々の夫はこんなことをする人間ではない。
そんな勇気はない。
だから私も悠真もひどく驚いたのだった。
さらに何日か後、浅見設計事務所に銀行員が来た。
融資を受けているため、たまにこうやって情報交換も兼ねて来る。
所長になる前は銀行員からいろんなことを、教えてもらうばかりで恐縮しながら話を聞いていた夫。まるで先生と生徒のように。
だがこの日は違った。
挨拶もそこそこに、ソファにふんぞり返って座る夫。
なんなのその態度…
遠目にも、私は冷や冷やしながら二人を見つめる。
「そんなに言うなら、なにか仕事の一つも持ってきてから言ってくれよ」
吐き捨てるように夫が、そう言ったのが聞こえた。
今なにを言ったの?
あんなにお世話になっている銀行に対して吐く言葉ではない。
「…奥さん今日はこれで失礼しますね」
そう言った馴染みの銀行員の顔は、明らかに引きつっていた。
いったいあなたのなにが偉いの?
そんなに威張れるようなことなにかしたの?
何度も言うが、元々夫はこんなことをするような人間じゃない。
後にわかるが、このころから夫は保険外交員の美加と不倫を始めていた。
付き合う人によって人は変わる。
以来夫は頻繁にこのような横柄な態度を、取るようになる。
私にも、子供達にも、社員にも、取引先や飲食店の店員、最終的には自分の両親にも。
この時期にもっと、私が夫の奇行にちゃんと向き合っていたら。
夫の変化に気が付いていたら。
もっとちゃんと注意していたら。
その原因を探っていたら。
もしかして我が家はこんなことにはなっていなかったのか。
子供たちを傷つけずにすんだのか。
しかし、何度も言うが人生に「たら」「れば」はないのだ。
mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!