見出し画像

蒼色の月 #86 「夫来る」

約束の日の夕方、夫が9ヶ月ぶりに我が家に帰って来た。
今日は、一日真夏の日差しを浴びてきましたと言わんばかりの真っ赤な顔と、右手だけ白く手袋の跡をつけて。

ゴルフ…。

お父さんは、休みがないほど仕事が忙しい。義母の具合が悪くて大変。夫が家に帰らない理由を、私が子供達にそう話していることなど、夫はとうの昔に忘れているのだろう。
家にも帰らず、そんな日に焼けた夫を見た子供達はどう思っただろう。自分のが家を出た後の子供達にはなんの関心も示さなかった夫。

私が夫に放った「悪意の遺棄になるのでは」という言葉は、思った以上の効果があったようだ。そうではないと思いたいが、夫は保身のために、こうやって自分の家にやって来たのだ。

夫は、長い間家に帰らないことを悪びれる様子もなく、堂々と家に入ってくるとソファーの真ん中に座りふんぞり返って足を組んだ。
9か月の間、一切家にも帰らず電話もせず、子供たちに悪いという気持ちはないようだ。あったらきっと、こんな態度にはならないだろう。

夫の向かい側には悠真と美織。ちょっと離れて、ダインイングテーブルに健斗と私。もう健斗は夫の側には行かない。夫が「約束通りお前は席をはずせよ」と言わんばかりに私を見た。

「ごめん、お母さんちょっと頭痛いから薬飲んでくるね。先にみんなで話してて」

私はそんな嘘をついた。どうか、悠真がちゃんと自分の意見を、言えますように、と祈りながらリビングを出た。同席したいのは山々だが、それが夫が我が家に来る条件なのだからしょうがない。

私は、寝室のベッドに腰を下ろした待った。話し合いが終わるのを。

「親が子供にすべきことは、心配することじゃなく信じること」

いつか読んだ誰かの本のそんな言葉が頭に浮かぶ。
頑張れ、悠真。

一時間もした頃、玄関ドアが開く音がした。慌てて出て行くと夫が出て行った後だった。

「お父さん帰ったの?どうだった?お父さんとちゃんと話せた?」

リビングの子供たちに尋ねた。

「お父さんさ、お母さんの言うとおり俺の大学進学にかなり渋ってた」

やっぱりか…。

「それで?どうなった?」

「でも最後には、結局昔決めた大学でいいってことになったよ」

「え?じゃあ予定通り東京の大学に行ってもいいって?」

「うん。結局、最後には進学していいって言ってたよ」

「そうか、良かった。ほんとに良かった。良かった」

「うん…」

「じゃあ、後は受験勉強頑張るだけだね」と安堵の笑顔の私。

良かった。
本当に良かった。
なんだかんだ言っても、夫はやっぱり父親なんだな。
離れてはいても、いざというときは子供のためにはやっぱりちゃんとするんだな。
それはそうだ。
夫にとっても、悠真は17年間共に暮らし育てた実の息子なのだから。

夫は、不倫してても、家に帰らなくても、子供の前ではちゃんと父親としてふるまってくれた。そう思った私は、どれだけほっとしたことか。


いつも通り、子供達はダイニングテーブルで夕食を食べ始めた。
私は、ソファーの前のテーブルの裏から、子供達に気付かれないようにICレコーダーをそっと取り外す。夫が来る前、私は夫がソファーに座るであろうことを想定し、テーブルの裏にICレコーダーを貼り付けておいたのだ。ここならもれなく、みんなの声が録音できるはずだから。

夜、私は一人の寝室で夫と子供達の会話を聞いた。案の定、横柄で見下したような夫の物言い。初めはおどおどと話していた悠真の声。

「お前、本当に大学行って勉強する気あんのか?」

「あるよ…」

「ほんとうか?遊びたくて大学行くヤツに、出す金なんかうちには一円もないからな」

「俺、そんなんじゃないから…」

「お前大学行ったって、どうせ勉強なんか真面目にやんないだろ?勉強なんか好きじゃないだろ?な?大学なんて行かなくてもいいだろ?行く必要ないだろ?な?」

「……」

レコーダーの中の夫の物言いに私は凍りつく。

なにこれ…まるで恫喝。夫はこんな言葉を子供達の前で吐いたのか。

しばらくして、そんな夫の言葉に反撃したのは、意外にも普段はおとなしい美織だった。

「お父さんもおじいちゃんも、お兄ちゃんが小学生の時から設計事務所継ぐのはお前だって。だから、絶対に大学に行けってずっと言ってきたじゃん。それを今更そんなこと言うなんて、ちょっとひどいんじゃない?」

「そうだよ。それにお兄ちゃんは一生懸命毎日受験勉強してるよ。お父さんは家に帰って来ないからお兄ちゃんが勉強してるとこ見てないだけだよ」
と健斗。

「お父さん、ここに行くなら大学行っても良いって前に何度も俺に言ったよね?」

「あ!私もそれ聞いた!はっきり言ってた!お父さん、お兄ちゃんにそう言ってた」

「僕も聞いた!絶対に言った!」と健斗。

「お父さん、俺はお父さんと約束したとおり、この大学を受けて建築家を目指す。今更やっぱり大学行くななんて、言いっこなしだよ。それはないよ。ちゃんと約束守ってよ」と悠真。

「そうだよ。守ってよ」と美織。

「そうだ!守れ!守れ!」と健斗。

レコーダーの中で、兄弟が協力していた。いつもはけんかばかりの美織と健斗が、兄のために戦っていた。私は泣いた。思いもしなかった援護射撃が嬉しかった。そして申し訳なかった。だから、泣いた。

レコーダーはまだ続く。

「お父さん!噓つきはいけないんだぞ」と健斗。

「親なんだから、子供にした約束はちゃんと守ってよ。なんか今さらそんなこと言うお父さん、超ダサい」と美織。

「そういうの虐待っていうんじゃないのぉ。スクールカウンセラーの先生が言ってた」と健斗。

「なんだ、お前達寄ってたかって!わかったよ。じゃお前の好きに受験すればいいだろ!」と夫。

「ほんとに俺、この大学受けていいんだね?ちゃんとお金出してくれるんだね?」

「しつこいな!わかったよ!行っていいって言ってるだろ!何度も聞くな!ただし浪人は絶対にさせないからな。ここに受からなかったからって私立はダメだからな!わかったな!」

レコーダーの中の夫は、はっきりとそう言った。その大学に行ってもいいと。お金を出すと。

実は、私はこの一言を録音するために、夫を我が家に呼び出したのだ。
この録音が、果たして法的に有効か無効かそんなことは知らない。
でもこれは、この先夫がやっぱり進学費用は出さないと言い出したときのための御守り。こちらの切り札となるだろう。今はこの切り札を、使わずにすむことを心から祈るばかりだが。

よし、これで悠真を希望通りの大学に進学させてやれる。
もう進学費用の心配はない。

その時はそう思ったのだ。
思ったのだった。





mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!