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蒼色の月 #46 「失格」

「麗子がいないと設計事務所は回らない。お前が事務所を守ってくれ」

そんな義父母の言葉通りに、私は今も設計事務所に通っている。
夫の奇行により、社員の信頼を失った今、その言葉もあながち嘘ではなくなってしまった。社員の夫に対する軽蔑の目に気が付かないのは夫だけだ。

別居から4ヶ月が過ぎていた。
今朝いつもの通り出社した設計事務所。
その日はいつもとなにか空気が違っていた。

いつもなら、各々仕事の準備に取りかかっている5人の社員たち。がしかしその日はちがった。

ガラス張りの応接室。
中を覗くと夫と社員の木村がいた。
彼は、義父が所長の時代から30年以上、うちの設計事務所で働いている。
私と夫も事務所に入りたての頃、いろいろと教えてもらった。事務所にはなくてはならない存在だ。

「いったいなんだろう…」

ガラス越しでも伝わってくる、二人の尋常ではない空気に私は胸騒ぎがした。
社員が言った。

「木村さん、事務所を辞めるそうです」

「嘘でしょ」

ありえない…。彼に辞められたら事務所がまわらない。それほど彼はこの事務所にとって大事な存在なのだ。

一時間も経った頃、木村が応接室から出てきた。
心配そうに見つめる私に、彼は申し訳なさそうに軽く頭を下げ、事務所を出て行った。

遅れて出てきた夫。

「どうしたの?なにがあったの?」

「あいつ、ここ辞めるんだってよ!」

夫は吐き捨てるようにそう言った。

「なんで?理由聞いた?ちゃんと話し合ったの?」

「しらねえよ!辞めたきゃ辞めりゃいいんだよ!俺に一度でもたてついたやつはこの事務所にはいらないんだよ!」

夫がゴミ箱を蹴り上げる。

「なに言ってるの。木村さんがいなくちゃこの事務所は回らないって。木村さんとちゃんと話し合ってよ!」

「うるさい!!」

夫にはなんでこんな簡単は話が通じなくなってしまったのか。自分だってずっと木村には感謝して大事にしてきたじゃない。もうこの人は普通じゃない。

木村が帰宅する駐車場、私は彼を呼び止める。

「なにがあったの?辞める理由ってなんですか?所長はなにも教えてくれなくて」

「奥さん、すみません。最近の所長の行動について、私から話をしたんです。取引会社からもいろいろと言われていますし。でもダメでした。私が今辞めたら他のみんなに迷惑がかかるって事はわかってます。だけどこれ以上、所長にはついていけない」

「それこないだの視察旅行やクシーナのことが原因?それなら私が所長に言ってこれからはそんなことないようにするから今回だけは思い留まってください。お願いします」

「そのことだけじゃありません。所長、不倫の噂が立ってから変わってしまった…。奥さんに対する態度もだけれど、俺たち社員に対しても、取引会社に対してさえも変わってしまった。所長にとって自分たちはただの駒。社員を人間扱いしなくなった所長にはもう付いていけないんです」

思い当たることが多々ある私は、返す言葉が見付からなかった。

「そのことを昨日所長に思い切って話しました。そしたら所長が俺にたてつくならここにいなくてもいいそう言ったんです」

「所長から辞めろって言ったの?」

「私は年だし、どうせ辞めないって高をくくってたんじゃないですか?それで今朝所長に辞表を出しました。奥さん、ごめんなさい。彼は所長失格です」

いつもは控えめな木村が私の目を見てそう言った。

「お願いします。私が所長をなんとかするから。どうか残ってください」

「…奥さん彼は女性問題が起きてから別人だ。横柄でワンマンで自己中で。奥さんがいくら説得してももうあの人は変わらない。いや変われない。変われないあの人にはもう付いていけない。すみません」

その後辞めるまで、木村と社長がこの件で話し合うことは一度も無かった。

引き継ぎが終り彼は辞めて行った。これから事務所はどうなっていくのだろう。

「彼は所長失格」

その言葉だけが私の頭に残って消えない。事務所の行く先を暗示しているようで怖い。
事務所をどうしよう。夫の目が覚めるまで私が事務所を守ると義父に約束した。浅見家のため、強いては私の子供たちのため。

事務所を守ることは愛する我が子を守ること。

夫がそれをしないなら、私がやるしかないのだ。
やるしかないのだ。


mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!