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蒼色の月 #58 「敬語」

翌日私が出社すると、机の上に「浅見」の名札が置いてあった。
真新しいその名札を見る私に、社員が言った。

「奥さん、今日から皆名札をつけるんだそうです。所長がそれみんなの分作ったみたいです」

「そう…6人しかいないのに、今さらなんで名札なんだろうね」

「それがですね。所長がこれを皆に渡すときに言ったんです」

「なんて?」

「今後は奥さんのことを、奥さんとは絶対に呼ぶなって」

「え?」

「奥さんのことは、今後は浅見さんと名前で呼ぶことだそうです。絶対だそうです。そのための名札だって」

お前はもう俺の「奥さん」とは認めないと言いたいのだろう。
だったらその口で言えばいいだろう。なぜこんな姑息な手を使って遠回しに私を傷つけるの?
普段の私なら、夫に向かってそういうだろう。しかし、この時期の私はとにかく夫が怖かった。同じ部屋にいるだけで怖くて怖くてたまらなかった。だから、私はこの姑息な嫌がらせを受け入れるしかなかった。私はその名札を胸に付けた。

私が休めば、仕事に来いと言い。私が仕事に来れば、こうやって私の心を傷つける。まさに生殺し。

事務室に夫が入って来た。

「浅見さん、ボケっとしていないで早く事務所の掃除をしていただけませんか?」

社員と私は驚いて夫の顔を見た。夫が私に対して敬語で話したから。もちろんそんなことは、今までにしたことがないから。

「どうしましたか、浅見さん、早くやっていただけないですかね」

状況が呑み込めない私は急いで掃除を始める。事務所の床のモップがけをしていると夫は社員に仕事の段取りを話し始めた。

「だからさ、ここは俺こうしたほうがいいと思うんだよね」

敬語じゃない…社員には今まで通りに話している。

敬語を使われるのは私だけなの?

パワハラ。
いじめ。
いやがらせ。
最低で幼稚な手段。
しかも社員みんなが見ている前で。

「浅見さん、掃除が終わったらこの見積書大至急作って先方にファックスしていただきたいのですが」

あなたは皆の前でこんなことまでして私のことを苦しめたいの?
私があなたにいったいなにをした?
悪いことをしでかしたのは貴方のほうでしょ?
そんなに離婚したいのならちゃんと私と話し合えば?

「麗子は痛めつければ自分から逃げ出すから大丈夫」

以前佐伯から聞いた美加の言葉を思い出す。
確かに、離婚話をすれば夫は確実にいくらかの慰謝料を払うことになる。
しかし、こうやって私を痛めつけ、私が勝手に逃げ出せば払う金額は減るだろう。
「慰謝料も何もいらないから一刻も早く離婚してください」
私にそう言わせたいのだろう。

美加の指示か。

以降、事務所の中では私に対する夫のパワハラがこれでもかというくらい続くのだ。





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