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蒼色の月 #83 「宝箱」

私が、夫の設計事務所に行かなくなって3週間が過ぎた。
以前、夫ともめて退職した木村から電話があったのは、夕飯が終わった頃だった。

「木村さん、お久しぶりです。あれからどうしてましたか?元気にしてましたか?ずっと気にはなっていたんだけど、こっちもいろいろあって」

「奥さん、俺は元気です。心配しないでください。あれからすぐ仕事も決まって。小さな建設会社ですけど。俺は大丈夫です」

久しぶりに、20年も一緒に働いた仲間の声を聞き急に懐かしさが込み上げた。

「それより奥さん、昨日、事務所の鈴木から電話もらいましてね」

鈴木とは木村に次ぐ古株の社員で、夫の車にGPSを付けてくれた社員。

「奥さんのことで、話がしたいから会いたいって呼び出されたんです」

「私のことで?それってなんですか」

私には思い当たる節がない。

「それで待ち合わせ場所の、いつもの食事処に行ったら他の社員も全員来ていてね」

夫の設計事務所には、今は4人の社員がいる。50代の鈴木と、40代の社員2人、あとは入って2年の20代の社員だ。全員が一度に集まったと言う話は、あまり聞いたことがない。

「それでなんだったんですか?」

「そしたらあいつら、奥さんを事務所に戻したいから知恵を貸して欲しいって」

「私を?設計事務所に?」

「はい。奥さんがこのまま辞めてしまうのは、どうしても納得がいかないって。辞めるとしたらそれは所長のほうだろうって」

「そんなことみんなが?」

この一年半、悔し涙、悲しい涙、惨めな涙は散々流してきた。しかし今の私の目からは、これ以上無いくらいの嬉しい涙が溢れ出していた。みんなが私のためにそんなことを。社員のみんなと仕事したこと、話したこと、笑ったこと、心配したこと。事務所でのいろんな出来事が思い出される。どれも良い思い出。至らない私だったけれど、そんな私のために社員のみんながそんなことを言ってくれたなんて。

浅見設計事務所は、義父が立ち上げた事務所で、それを継いだのは夫で、私は嫁としてそれを補佐してきたにすぎないのだけれど。しかし、私は私なりにあの設計事務所を愛している。一緒に働く社員達を愛している。愛しているなんて言葉、大げさすぎるのかもしれないが、その言葉以外私の心を表現できる言葉が見付からないから、私は心の底から彼等を愛していたんだと思う。

あるときは父のようで、あるときは兄のようで、あるときは先生で、あるときは同志であるときは弟や息子で。私も含めみんなそれぞれいろんな癖はあるけれど、それも含めて愛おしい。私は20年、そんな気持ちであの設計事務所でみんなと働いてきた。どちらかというとみんなシャイで、なかなか自分の本音を前面に出すような彼らではなかったが。私の気持ちが、彼等にちゃんと伝わっていたんだな。私が彼等を家族のように、大事に思っていたことが、ちゃんと彼等に伝わっていたんだな。

そう思ったら嬉しくて、涙が出た。
義父や夫に対しては、もう未練のカケラもない。

しかし、本当の気持ちを言えば、正直仕事や事務所のみんなにはまだ未練が捨てきれないでいた。本当に好きだったから。

でももういいや。

私の気持ちがみんなに届いていたんだもの。
ちゃんと届いていたんだもの。
私がこの20年間、浅見設計事務所で裏方に徹してやってきたことは無駄じゃなかったってわかったから。社員みんなに通じていたってわかったから。

だからもう、あの事務所からは卒業。

私はこの電話をもらい、やっと浅見設計事務所への未練を断ち切る事が出来た。やっと、過去にする事が出来た。これで、私はあの事務所でやるべき事はやりきったと胸を張って言える。それをさせてくれたのは、義父でも夫でもなくて、社員のみんなだった。

「木村さん、みんなの気持ちはもちろん嬉しいんだけどね。所長が辞めて私が戻るなんて無理だから。そんなんじゃ事務所がまわっていかないしね。でも皆の気持ちだけは本当に嬉しかった!みんなにそう伝えてください」

「そうですよね。奥さんこれから所長とのこと大変なんだし、子供さん達も受験だし、もう事務所に構ってられないですよね。みんなだって分かってるんです。無理だってこと。だけど奥さんのためになにかしたくて、いても立ってもいられなくて、ああして集まったんだと思います」

「ありがとう・・・ありがとう・・・」

私のために、みんなが集まってくれたそれだけで、私には十分すぎる20年分のご褒美なのだ。

電話を切った後、この20年の社員とのあれこれが頭に次々と浮かぶ。
「思えば思われる」誰が言ったことばだっけ。人が人を思う素晴らしさ。そのことを感じさせてくれた、社員皆にありがとう。私は一生忘れない。
この夜のことは、私の心の大事な宝箱の中に。






mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!