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風になれ、少女たち いしいひさいち『ROCA-吉川ロカストーリーライブ』

手元に10枚組のファドのCDがある。CD1と書いてある1枚を選んで、デッキに入れて再生する。ファドとは、ポルトガルの民族歌謡で、「運命」「宿命」といった意味であるらしい。覚えていないが、10年くらい前に買ったまま、埃をかぶっていたものだ。突然聴く気になったのは、話題になっている本書を読んだからだ。ファドの歌手を目指す吉川露花(ロカ)と、友人の柴島美乃の物語。(ラストのネタバレしてますので、未見の方はご注意ください)

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二人は高校の同級生だが、連絡船の沈没事故で両親を亡くすという、不幸な身の上で共通しており、最初の出会いは幼き日の慰霊祭だった。歌以外はボンヤリしているロカと、目つきも口も悪いがロカに対して非常に面倒見のいい美乃。類まれな歌唱の魅力を持っていたロカは、ストリートライブからCDデビューとスターへの道を登っていくが、美乃は「連れ込まれた人が出てこんゆうウワサの商会の支配人の娘」(※1)であったことが、二人の間に影を落とすこととなる。

ところで、私にとっていしいひさいち氏といえば『おじゃまんが山田くん』で、漫画のタッチ、セリフ回し、テンポなど昔からおなじみのものだった。ちょっと、くしゃくしゃした雰囲気。しかし時折、本当に時折、ガラッと居住まいが変わるコマがある。突然劇画調になるわけでもなく、あくまで「いしいひさいち節」の印象の範囲内だが、ふっとドキリとする瞬間があるのだ。私にとってそれはラストで一気に押し寄せた。

ロカは歌い終わるとき、お世話になった人に礼を言うとき、「ありがとうございました。」と深々と頭を下げる。物語の最後にそのしぐさとともに言った言葉は、「ゴメンナサイ。」だった。顔の見えないその姿に心が騒いだタイミングで登場する、空を見つめるロカの横顔。このコマひとつに、ロカのこれまでの人生が見えた。母から譲り受けた歌唱と、同じ事故で亡くした姉から引き継いだリズム。美乃との出会いと生活。商店街でお世話になった人々。共演したミュージシャンたち。美乃の、暴力団の筋であるという事実は、断絶すべきものだった。美乃の「もう連絡するな」という言葉は、ロカへの贈り物でもあり、ロカもそれをよく知っていた。ロカの絵ひとつにそれが感じられて私は揺さぶられた。本を閉じてからも、体がぐらぐらするのがわかった。読み終えたはずなのに嗚咽が止まらなくなった。

ファドの世界で、「サウダージ」という言葉があるという。「・・・切ないだけでない 儚いだけでない ひとことでは言われへん 複雑な感情表現」(※2)のことだと。いしい氏の表現はまさにサウダージであった。こういう漫画表現は、テクニックなのか、キャリアなのか、才能なのか。おそらく、どれも必要なのだろう。自分ではとても到達できないであろう境地を、垣間見られたことは幸せだった。

美乃のいた柴島商会は焼跡となっている。どのような経緯があったのかはわからない。だが三代続いたという商会を、美乃が自ら断ったのではないかという気がしてならない。二人の少女たちはどうなっただろうか。いつの頃からか、ファドは私にとって、「自分の思いを風に乗せて届ける歌」というイメージがあった。ロカの歌声が風に乗って、美乃のもとに届いていることを願ってやまない。

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※1 いしいひさいち『ROCA-吉川ロカストーリーライブ』(笑)いしい商店、2022、5頁。 
※2 同、140頁。 

【参考文献】
ウィキペディアフリー百科事典「ファド」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%89、最終更新 2021年11月5日 (金) 21:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)、2022年8月26日閲覧。

2023年2月20日「いつの頃からか、…というイメージがあった。」部分を加筆。


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