第十五章 順徳院の独白

わたしは、京からの便りを待っていた。佐渡で暮らすようになって、ずいぶんと経つ。その四季のみごとな変化に戸惑いながらも、自然のすごさ、美しさに心を揺さぶられてきた。

冬は降り積もる雪を眺め、歌を詠み、あくる朝は、雪道をかき分け、二宮に住む忠子親王を訪れる。忠子は子どもたちの中でも、歌を詠む才がある。こんな朝は、二人して昨夜作った歌を披露しあう。わたしも忠子の歌を添削してやり、書き留めておく。

夏の夜は、涼やかな風の吹く場所で、琵琶を弾く。女官たちは、それに合わせて、琴を弾いたり、舞をする。

秋は、月を眺めながら、管弦の会を催す。ここには身分の高いものはいないかわりに、音曲の才あるものが多い。彼らのために都からも師を招いて、笛、琵琶、琴、ひちりき、龍笛、笙などを教えると、みごとに弾きこなすようになった。楽器もみな、京より取り寄せた。母の女院が心を配って、宮中と同じような楽器ばかり集めてくれた。わたしが教えた琵琶の弾き手は、都に修行に行かせ、新しい曲を覚えて戻ってきた。

月の美しい夜、ここで宮中のような管弦の夕べを楽しんでいるのを知れば、鎌倉方は苦々しく思うだろう。だが、止めることはできまい。装束もここで誂える。佐渡では、よい繭がとれ、女たちは村人に機織を教え、針仕事をみんなで楽しむ。自然の草花に合わせ、刺繍もし、衣装を作り上げる。この島では、こまごました日々の労働も楽しみのひとつになる。

読みたい書物も、和歌集も、必要なものは揃っているから、京での暮らしと、あまり変わらない。ただ、毎日のように顔を合わせていた公卿たちがいないだけだ。そんなゆったりとした時間の中に、政(まつりごと)のうねりが伝わってきた。

息子懐成(九条廃帝)を天皇の位から引きずり下ろし、代わりに鎌倉方の後押しで、位についた後堀河天皇。守貞親王(後高倉院)の息子である。この血筋は、みな若くして死す。後堀河天皇が崩御し、その子、四条天皇が十二歳でなくなると、人々は、後鳥羽院の呪いだと怖れた。

後高倉院の血統から皇位継承できる皇子が絶え、次の天皇を誰にするかで、宮中も鎌倉方も頭を悩ましていた。鎌倉方は、後鳥羽院の血筋が天皇になることを苦々しく思っている。だが、それしか策はない。関白九条道家ら有力公卿は、わが子、忠成を推すものが多かったと聞いている。

佐渡から京までは、便りが届くのに十日あまりかかる。手紙を送って、返事が来るのには、半月以上かかるのだ。九条道家からの手紙では、京では、忠成を候補として、鎌倉方に正式な書状を出したという。

北条泰時がただひとり、反対しているのだと書いてあった。後鳥羽院の系統の中でも、承久の変を起こした私の皇子ではなく、土御門上皇の皇子、邦仁王がよいというのだ。

九条道家の三男頼経は、実朝なきあと、鎌倉で征夷大将軍となり、鎌倉方にも強い絆があるから、頼もしく思っていた。

ほんのわずかな希望にすがり、わたしの静かな生活は一変した。表面上は、いつもと変わりなく過ごしているのだが、私の心のさざ波を誰も知らない。佐渡で暮らして、二十年あまり、京のことは忘れてしまった。

いかにして契りおきせむ白菊を都忘れと名づくるも憂し
(父宮、後鳥羽院が好きだった白菊を、みやこわすれと名づけ、佐渡でこれを眺めてくらすのは、憂しことだの意)

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