第十九章 母、修明門院のことば

順徳院の母、修明門院は、後鳥羽上皇の寵妃で、順徳天皇・雅成親王・尊快法親王の三人をお生みになった。承久の変ののち、後鳥羽院が隠岐に配流されるとき、同行しようとした。しかしながら、女院のいう身分のため、許されず、京に留め置かれる。

その後、後鳥羽院母、七条院に仕え、その領荘園を相続し、後鳥羽院の死後は追善仏事を執りおこなう。養女となった卿二位の遺領の大半も得て、経済的にも豊かな暮らしを続けた。 順徳院の子どもたちを後見、養育する。
文永元年8月29日死去。83歳。

三浦守親は、京都に着くと、知り合いの住まいに身を寄せ、岡崎の修明門院に使いを送った。女院は、すぐに出向くようにと、網代車(あじろぐるま)をよこした。忠子女王は、ただただ恐れ入っているが、守親が説得して、ようやく乗り込んだ。

「守親とやら、大儀であった。忠子、近う寄って顔をみせておくれ。守成(順徳院)によう面ざしが似ている。血は争えぬものじゃ。」

女院の前で、守親は平伏して、次の言葉を待つ。

「忠子、京に戻ってきて、そなたは何がしたいか。兄の忠成は、帝にはなれなかった。代わりにそなたが、宮中に出仕したいというのであれば、女院がお手伝いしよう。だが、それでは、女の幸せは味わえないかもしれぬ。帝に気に入られて、皇子を産んだとしても、出自が順徳系なら、はかばかしい出世はできない。後ろ盾のない宮仕えは、辛いもの。それよりも、この守親を夫にして、二人して、女院に仕えてはくれないか。」

忠子は、何もいえず、女院を見つめている。この方が父宮のお母上、なんと若々しく、美しいお方なのだろうか。守親も、思いがけぬ展開に、はらはらしながら、二人を眺めていた。

「そなた二人が、佐渡から戻ってきたと聞いたときから、わたしはそれを願っていた。同じ島で暮らし、日々を送り、苦楽を共にしたものだから、寄り添って生きることができる。これから、どんな時代になるかもしれないが、二人には、睦まじく過ごしてほしい。」

女院は、忠親をお側近く、呼び出した。

「関白九条道家には、すでに伝えてある。順徳院の思い出を共有したいから、二人をここに留めてほしいと、頼んだ。さいわい、鎌倉方も、順徳院崩御の後は、悩みごともなく、守親の詮議もしないと伝えてきた。」

忠親は、北条政子のことを思い出していた。京にも、このような方がいらっしゃる。お望みになったことは、何でも実現させる力がある方。

「忠親、頼んだぞ。これまでは、順徳院を警護し、仕えてくれた。これからは、忠子の力になってほしい。これは順徳院からの遺言でもあるのだ」

現在、佐渡の二宮神社に忠子女王は祀られている。宮内庁の管轄だ。島の者どもは、わずか十七歳で亡くなったという、この方を今も大切に思い、偲んでいる。

              完



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