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『雨乞いと老婆 〜映画『産土』特別編②』

一度会っただけでずっと心に残る出会いがあり、一度赴いただけで二度と忘れられないような場所もある。ただの通りすがりのはずが、取り憑いたように心に残って離れない。誰にもそういう場所があるはずだが、僕にとっては山梨県の早川町がそれにあたる。言ってしまえば、地名を耳にしただけでちょっと胸キュンしてしまうような場所なのである。

寡聞にしてこの町のことは、2012年の取材前は名前も存在も知らなかった。聞くところによるとここはなんでも「日本で一番人口の少ない町」という余り嬉しくない日本一の名誉にあずかっている場所だそうで、お察しのように、というか読んで字のごとく極端に人がいない町である(今年の統計で1048人)。僕が住んでいる徳島県“最後の村”の佐那河内村でさえ、だいたい2200人程度の人口があるので、「町」の人口としては相当少ないものである。

前回の投稿の中で『産土』は「藁しべ長者」のように作った「藁しべ映画」だと述べたが(悲しいことに長者になることだけは程遠いのだが)、この地に赴いたのもまさしくそのような経緯による。産土キャラバンにゴーするのに際し、有識者を集めた実行委員会を作って様々な方々にアドバイスを頂いていたのであるが、そのうちの一人である徳島大学田口准教授がこの地にユカリがあるとのことで、連絡をとってもらったことからすべてははじまった。上に名前も存在も知らなかったと書いたが、日本というのは実に狭いもので、調べてみると色々と自分と繋がりがあることがわかった。

(唐突に何を言い出すのやらと訝しがられるのは承知で言ってしまうと)僕の母方は「加倉井」という姓で、半農半学で水戸藩に代々仕えた儒学者だったのだが、水戸に落ち着く前は甲斐地方にいたらしく、その辺り(早川町の隣町、身延町付近)の地頭をしていて、日蓮上人を匿ったりしていたと云う。左様な先祖の足跡が残っている地に初めて赴いた途端、驚くべきことに前世の記憶が沸々と蘇ってきた…というようなロマンティックなことは残念ながら僕には起きてはくれなかったが、なんとはなしの既視感があったのは、ただプラシーボ的錯覚であったろうか。

まあそんなどうでもいい話は置いておいて本題に戻るとする。この地で撮影したものの中で最も強烈なものは、映像前半にある茂倉地区のみなさんにやってもらった雨乞いの儀式だろう。実は最初はこれではなくて過疎の実態を聞いて回るのが主目的だったのだが、たまたま一枚の写真を見てしまったことからそちらに意識が飛んでいってしまったのであった。それは森の中のようなところで中年の女性たちが団扇太鼓を叩いて何やら呟いているのか口を開いているような怪しげな写真だった。詳細を聴いてみると、数日前に日照りが続いたため、約50年ぶりに雨乞いの儀式をひっそり数人でやったのだ云う。「これだ!」と僕は即座に思い、おそらく小躍りすらしたはずである。是非とともそれを見せて欲しいとダメ元で頼んでみると、なんとOKが出る。しかしどうにも恐縮していたので、「みなさんお忙しいでしょうから2~3人の方で良いですから」とお願いしたところ、あれよあれよといつの間にか話が拡大し、足腰の悪い方などを除いた茂倉地区のほぼすべての住民の方々が集まってくださっての大掛かりな雨乞い儀式となった。そしてどうなったかは映像を見てもらえば一目瞭然である。

これは再現といえば再現である。僕は日常的に、もう終わってしまったものを再現でもして記録するのはいかがなものかと表明している身であり、おまえも結局そうではないかと言われてしまえば恥じ入るしかないのであるが、ちょっと前にやったことでもあるし、現にヒデリもあったことだし、ギリギリセーフだと自分では身勝手にも思っている。また結果的に起きたことは何ら虚飾のないドキュメンタリーである。

もう一点だけ思うところを書かせてもらうことにする。映像後半にでてくる、当時94歳であった望月ふみ江さんを訪問したことについてだ。ふみ江さんは「まるで動物園みたい」とご本人で形容されたような、山深い早川町の中でも更に奥深い稲又集落に住まわれていた。動物がメインで暮らす場所の中で、「人間居住区」があるような印象を受けた。稲又は取材当時、3世帯5人しか住んでいないという所である。

ふみ江さんはドラム缶に太い薪を入れてゴソゴソとしていた。何をしているのかと聞くと、クマやイノシシが畑に近づかないようにドラム缶に薪をくべて燃やすのだと答えた。それも朝夕二回行っていると。この小さな老婆が、誰もいないような山の上の畑で、欠かさず薪を燃やしているのかと思うと、エもいわれぬ心境になった。

写真を撮らせてくださいとお願いした時、畑の中ほどに置いてあるマネキンのカカシとのツーショットを希望されたのだが、今になればその気持はよく分かる。僕も今や4~5世帯しか住んでいない徳島県の山の上に住んでいて、自宅前の畑に立っているマネキンに「キャサリン」というアダ名をつけており、子供たちと「おはようキャサリン」などと日常的に言っているからだ。きっとそんな愛着があったんだと思う。変色した町内の掲示板には一枚の紙もポスターも貼られていない。倒れた運搬用一輪車は相当な年月そこで倒れたままであるようだ。おもわず「孤絶」という言葉を吐きたくなる。

ふみ江さんの家におずおずと上がる。一脚に載せたカメラを向ける。最初のうちは色々と話が飛んだり、僕の質問が聞き取れなかったりであったが、徐々に人が変わったように明晰に話をされだした。

「食糧難がいずれやってくる」と彼女は言った。約100年という時間を生きて来て、この畑をずっと守ってきた人にそれを言われると、なんとも凄まじい説得力があった。

僕はインタビューアーにはおよそ向かない、およそチキンハートな人間である。「限界集落」というどこかの学者が勝手に作ったワードを、それにカテゴライズされる場所かつ日本で最も人のいない町とすら形容されるような場所で、それを聞くのを目的でこんなところまで赴いてきたにもかかわらず、住民に対してそれをダイレクトに聞くことができないような根性なしの人間なのである。この人にこれを聞いたらこの人はどう思うかということばかり考えてしまうのだ。

だがふみ江さんは突如言った。

「限界の村っていうのは現実だね。自然に人が減っていって、出た人が帰って来なければ、自然に消滅するよね。生きているうちだけ、元気に暮らしていくしかないよね。くよくよしてても仕方ないから」と。

僕はある意味卑怯だったのかもしれない。遠回しに質問の核心付近をふらついていた僕のチキンハートをふみ江さんは見越して、こうきりだしてくれたのかもしれないと今はかんがえる。映画では「くよくよしてても仕方ないから」で彼女の話は終わるが、今回改めて編集し直すにあたり懐かしさに胸がしめつけられるようになった。そして追悼の意も込めて、最後まで彼女の話を音だけ残すことにした。

このインタビューは高々1、2時間程度に過ぎなかった。なんなら公園のベンチで横にいた人の話を嫌々ながら聞いてしまうとか、機内で隣り合わせた人と話し込んでしまうとかいったような、床屋談義に毛が生えた程度の時間であったに過ぎない。けども2014年の年末に彼女が亡くなったとの報を受けた時、僕は泣いた。ただ1、2時間通り過がりに話を聞いただけの関係であるのに。

この映画は彼女の葬儀で流された。婆ちゃんのいつものそのまんまだらとご家族から要望された。袖振り合うもなんとやらと世に言うが、ある種の縁があったのだろう。時は過ぎ、イギリスやカナダでこの映画を上映した時、ふみ江さんのくだりで泣いた人がいた。一番印象深かったという人もいた。山梨の山奥をほぼ出なかった老婆の日常が、海を越えた瞬間であった。

文責:長岡参

●彼女へのインタビュー全文はこちらで読めるので、ご興味の方はご一読ください。
https://note.com/milenagaoka/n/n1da9632afe03


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