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12/10ー12 久高ロケにて

なぜ文字など書くんだろう。いちいち。

七面倒臭いのに。だが書かなければ、忘れてしまうから、やはり今のうちに書く。

久高島から帰ってきて、文字も言葉も消えればいいのに的感覚に暫く陥った。そんなもの、いらないじゃないかと。ある出逢いがきっとその主要因に違いない。

その11年前にも訪れたことのある沖縄東方の離島を案内してくれたSさんは、僕が言葉を吐く度に、性急にわかりやすい概念で、彼の行為や、島の有り様をくくろうとするのに釘を刺してきた。

彼は「楽園」を作るのだという。人生をそれに捧げているのだと。

彼は島に入るならば、まず海で躰を清めなさいと僕ら一向にウェットスーツを配り、軽自動車で島の南西部、徳仁港に近いメーギ浜へと僕らを連れて行くと、そこで一人づつ僕らを海の中に案内し、仰向けに水の中に浮かべ、ゆらゆらと揺らした。

金槌である僕だが珍しく恐怖心よりも好奇心が増した。僕の躰は重症であるという。あちこちに力が入っていると。彼はこれを「原点海帰」と呼んでいるらしいが、それを「禊」と呼ばれることをなぜか拒んだ。それは同じく11年前、山形の羽黒にて山伏修行をした時に少し似ていた。水の中は音がなく、優しさに溢れているような感じがした。僕は空を見ながら、嬉しさと戸惑いと楽しさが入り混じったような気持ちになっていた。

砂に向かって足をつけようとすると、なぜか足がぐにゃぐにゃでうまく立てなかった。彼は僕を見て、若返ったなと笑った。

名前も出すことも、写真や映像に映ることも彼は拒否した。11年前に「魂を撮られるから嫌だ」とカメラの前に経つことを拒否し、音声だけ記録させてもらったユタカさんですら、今や僕のカメラの前に座ってくれたというのに。

その傍らでテトラさんは言葉を紡ぎ続けている。呼吸をするように。ドストエフスキーの登場人物たちが息継ぎもせず間を埋めるように、沈黙を慰撫しつつも言葉で埋め尽くそうとする。一方で僕はいつになく無言だった。あたりの空間が、多くの無言によって重さを増していった。

沖縄に到着したのはその前日だった。僕の右手は通風で腫れていて箸を持つのもままならない。「箸より重たいものを持ったことがない」という慣用句があるが、今の僕はもはや箸すら持てない。ハメに噛まれたような手と、90℃以上内側には曲がらない腕。代用の左手で、子供用のスプーンを借りて、ボロボロと机に落としたりしながら僕は琉球でしか食べれないご飯を食べる。そこはGoogle Mapで評価の高かった「ゆうなんぎい」という名の限りなく名店だと思える店の中だった。

常に自分を下げて話す独特のユーモアの風習が広く沖縄の男性にはあるのだろうか。30年以上営んでいるという自分の店のメニューをコキ下ろしながら、上手にまんべんなく料理を進めてくれる老店主の男性は、店に飾られた古いモノクロ写真ーーーかつて教師だったという彼の父が全身ムキムキの子どもたちに組体操をさせているーーーを見ながら、その厳格過ぎたという父を指差し、厳格で国粋主義者過ぎたゆえに、戦後は教職を追放され悲惨な人生だったんだと短く言うと、ズボンの中から色褪せたカードケースを取りだし、上に日の丸のシールが貼ってある父親の丹精な顔写真を見せてくれた。日の丸が父への手向けであるのだという。

翌朝、荷物を厳選して国際通り近くのホテルに預けたままにし、南城市の安座真港にまでタクシーを呼んで向かった。最近タクシー代が少し値上がりしたというのだが、それでも東京に比べるとだいぶ安い。これは行きの、ではなく帰りのタクシーの、沖縄全共闘の生き残りで、二回逮捕されたことがあるというおしゃべりな老運転手に聞いた話だが、南城市という市は佐敷町、知念村、玉城村、大里村が合併してできた市で、人口は4万人ほどだということであった。久茂地のホテルからはおよそ40分20km程の道。車窓からの景色は拍子抜けするほど、「沖縄感」がない。同行四人のうち三人が、前夜UNIONというスーパーで買った、ダサめのTシャツを着ていた。浅野忠信が着たことがあるという、タクシー運転手から聞いた情報がなぜかそれを買う決め手となった。しかし12月だというのに、Tシャツと半ズボンで汗ばむような陽気である。

安座真港からフェリーに乗る。ここまでは、ほとんど以前の記憶が蘇らない。港に着くと、Sさんが迎えに来てくれた。

そしてメーギ浜で水母のように海に浮いてから、ピザ浜で海の風景を贅沢な時間をかけて撮影した後、ユタカさんのインタビューをセッティングしてくれた。話は、僕が想定していたものとはだいぶ離れていったが、テトラさんが最後に彼のライフプロジェクトに奇しくもなった、そしてそれが僕の作品との結節点にもなった種を配るという「行事」を終えると、今回の目的はもう済んでしまったかのようだった。

浜からの帰り際にSさんは「撮りたいものは撮れた?」と僕に訊いてきた。「はい」とは答えたものの、ある種の残尿感のようなものが漂っていたのはたしかだった。僕は種の神が祀られているところを見たいと話した。11年前に、あのタコ漁師のヨーカツさんに連れられていった記憶があったからだ。そこからの話の微細を書いてみたいのだが、今はまだ書けない。

その晩のささやかな晩餐時、Sさんは「君は何をしにこの世に来たの?」と僕に問うた。僕は、人の話を聴くためにと答えた。やりたいことが、見るとか、撮るではないのだと悟ったのは最近のことだ。

僕は自分が見聞きしたものを、誰かに伝え、その誰かが少しでも生きていてよかったと思えるようなものが作りたいと思っている。そして、それこそが僕が産まれた理由だと思っている。

YouTubeを始めたりして、ややテレビ的な頭になっていたのは事実である。そして、昔はなんとでも何かを撮ろうと足掻いたような感覚がふっと抜けて、よく言えば泰然自若、悪く言えば集中力不足に陥っているのも、きっと確かだと思う。

Sさんは、君がこれからまだ新しく何か大切なものを誰かに聴くためには、躰を整えなければならないと言った。今、ここですべてを撮ろうとするのは違う。それは薄っぺらいよ、と彼は言った。それが僕には今、一番必要な言葉だと思えた。

クラウドファウンディングでお金を集めてからはやだいぶ時間が過ぎているし、お金はとっくにかなりを使い果たしている。けれど僕はこれを作ることを終わらせられないでいる。

僕はなぜ今映画を作れているんだろう。なぜ久高に来れているのだろう。それはある意味においては、僕にとっての「楽園」であると言えた。『産土』という作品を紡ぐという行為そのものが。

或いは、「伝芸」という言葉で括ったものを誰よりも自分が学び続けられるということが。

僕は間隙を置かず、またこの島にきっと往くことになる。「起源」を求めて。今はそれしか言うことはない。とにかくかつての日々でアクセスできなかったものに、アクセスできそうな僥倖を、なんとか掴みたい。

『産土』のラストのエピソードに登場するヨーカツさんは、まだご顕在だった。彼の真贋入り混じった言葉が、更に拍車がかかっていて、何がなんだか分からなくなる。が、彼は僕が差し出したビールをまずプシュっとあけると、どんどんと呑んでいく。ヨーカツさんは冬なのに暖かい日差しが揺れる縁側に片膝をついて座しているた。なぜだか見知らぬ若くて綺麗な女性も同居していてるらしいし、タコ漁もまだまだ現役だというこの老人が僕にはたまらなく愛おしかった。ヨーカツさんはなぜか僕らに車を貸してくれた。「車代は100万円とるさー」とか言いながら、気が変わらないうちにさっさといけと言う。

僕らはヨーカツさんの車で、11年前にいけなかった、島の東端であるカベール岬まで、ビロウの木々を一直線に区分けている白い道を真っ直ぐ走った。ここに降り立ったという神はどんな神だったのか。ユタカさんの言うように、それは難破した船から降りてきた徐福一向のカタワレででもあったのか。僕はただ波と、砂を見て、腫れた右手の甲に、砕かれた貝殻たちの死骸であるその砂を擦り付けた。

もう、帰りのフェリーの時間だ。Sさんとその夫人は、港が岬の奥に隠れて見えなくなるまで、手を降って見送ってくれた。

最初の夜の晩、国際通りの民謡ステージ歌姫という店の前で、歯の欠けたイケメン中年男性が三線を弾いていた。彼は、蛇革の三線を僕に持たせてくれた。随分とベテランに見えたが、実はまだ弾き始めて三ヶ月しか経ってないといい、自分の兄がこの店のステージで唄うから見ていってという。明後日ならばこれるかもと彼に言うと、その日なら兄は出る筈と彼は言った。

テトラさんと別れ、那覇に戻った晩、国際通りを歩いているとまたその店があって、なんとはなしに吸い込まれていった。「兄」だと言ったが、ステージに立っていたのは、その人そのものであった。

彼はアラカチさんという、沖縄では長い芸歴のある名のしれた三線奏者だという。そこに沖縄民謡界の大御所だという我如古より子さん、室井恒慈郎さんらが一緒にステージに経ち、BOOMやBEGINの曲などの懐かしい曲を交代で歌った。

最後にアゲアゲな曲で終わりましょうと室井さんが叫ぶと、『唐船ドーイ』が始まり、客席のほとんどが立ってステージ前に押し寄せ、カチャーシを踊りだした。中には踊りの先生などもいたようで、みな玄人にしか見えない。僕は前日よりは動けるようになった右手と左手を交互に動かしながら、輪踊り状態となった舞台前で見知らぬ楽しげな人々の輪の中で踊った。

ほら、言葉で書くんじゃなかった。

(この項続く)

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