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『鬼ヶ島の祭~小さな島で行われるマッチョな秘祭~』

https://youtu.be/DtcfeypVnyY?si=frv43z5MeBRCHzFe

1 ● 4人の少年

 太鼓を叩く4人の少年を乗せた大きな物体が、海にプカプカと浮かんでいる。20人ばかりの眼光の鋭い男たちによって担がれている。物体の正体は太鼓台というもので、西日本の瀬戸内海沿岸では、よく神事のメインとして用いられ、あたかも神そのものようにどこまでも丁重に扱われるものだ。この地では、それを〈ちょうさ〉と呼ぶ。重たい丸太の棒を各々の肩に食い込ませたカキテ(担ぎ手)の男たちは、水中を歩くことに苦心している。前方の浜へ向けて、「ちょーうさー、ちょうさー」と大声を張り上げて、なんとか足を運ぶ。海の中ではいくらか浮力があるのだろうか。顔という顔を見てみると、陸地でのそれと比べると幾分和らいでいる。海水の心地よさに思わず白い歯をこぼす若者たちもいる。皆一様に浅黒く、頭に彩度の強過ぎる原色の鉢巻を締めている。

〈ちょうさ〉の中央上部の高欄では、「若中」の文字が正面に読める赤く奇妙な帽子を被った少年たちが、まるで巨大な五徳から吹き上がる4つの炎のように、腕を左右交互に振り上げ太鼓を叩いている。彼らの身体は布団数枚分もの綿でギュウギュウに括られており、炎というより4体のパンパンに膨れあがったミシュランマンのようだ。当然、中は凄まじく窮屈であるはずだが、彼らはゼンマイ仕掛け人形であるかのように平然と大鼓を叩き続けている。彼らは〈太鼓乗り〉と呼ばれ、神の化身のように扱われる。

海中を歩くこの集団の中には、高そうなカンカン帽を被って、粋な文様を染め抜いたド派手な浴衣を戦闘服のように着た4名の強面たちがおり、なにやら木棒を振りかざして(これで誰かブッたりするわけではない)時折、疲労困憊したカキテたちに、怒号のようなシッタ激励を浴びせかける。

何も知らず海水浴にきて、愉快に遊んでいた無邪気なカップルや家族連れやらは、突如として海に入ってきたその集団の異様さに呆気にとられている。撮影者には躊躇は大敵。僕はこの集団を道すがら追って来て、海へ入るのを見るやいなや、ジーパン・スニーカーのままザブンと飛び込むと、海面から一脚に載せたカメラをヒョコッと出して、ただ眼前を力強く凝視していた。これは今から6年ほど前、2011年8月7日の出来事である。 

高松港の北々東約4キロ沖の海上にある女木島(めぎじま)という名のこの小さな島で、真夏で真昼のうだるような暑さのこの光景から、ちょうど1年ほど時をさかのぼった2010年8月11日の夜遅く、東京駅の八重洲口付近で徳島行の夜行バスへと不安気に乗り込む、安物の帽子を被った若い男の姿があった。

以下、少々長くなる。まどろっこしいのですっ飛ばしたい向きは、第5章まで飛んでもらって構わない。 

2 ● 帽子を被ったカメラを持った男

この男が大事そうに抱える重たそうなバッグの中は、真新しいカメラ機材がぎゅうぎゅうに詰められている。それらは彼が両親に「絶対結婚しないからどうしても頂戴」と性悪な手を差しだし、哀れな両親が貯めていた雀の涙ほどの愛息のための結婚用資金を使って、ごく最近買い求めたものである。万感の想いで手にした当時の花形カメラ〈Cannon 5D Mark2〉。そして高いCanon純正を避けて選んだSigmaの標準レンズに加え、幾分背伸びをして強情にも欲しがった伝家の宝刀Carl ZeissのプラナーT50mm 。三脚一脚その他一式である。

その男を乗せたバスは、東京から直線上では500キロほど西南にある巨大な蝶ネクタイのような島に大きな橋を越えて入る。そこがもう徳島である。徳島駅前でバスを降りると、噂に聞く阿波おどりの季節らしく、あちこちで大鼓と三味線の音と「ヤットサー」という女たちの掛け声とが男を色めきたたせる。乗り継いだバスは市内を離れ、見知らぬ家々やら農地やら畑やらの「ド」がつくほどの田舎道を、何層にも連なった山々へと向けてグングンと突き進んでいく。車内に人影は疎らで、ついには乗客は彼一人だけになった。長い長いトンネルを抜けると、景色が一度に急変し、険しくなった。針葉樹に埋め尽くされた急峻な山々に、白濁した霧がタラーっとたなびいている。人家はほとんどなく、対向車も後続車もまるでない。

「ああ、遂に自分は死んだのだな」と男は思った。それほどこの眼前の光景は、新鮮さを通り越して異様であった。視線の先に、突如として平地が広がりはじめる。「過疎」という形容が過剰に思えるほど、無数の家々が見えてくる。そこが神山町の中心部だ。中腹に荘厳な神社のある、小さな山の北側に古びた商店街があり、そのちょうど真ん中にある長屋の一角に、改装されて前面がガラス張りになった古民家がある。まるで「シャレた刑務所」のようだなと男は思った。中に入って荷物を降ろすと、早速結婚資金が化けた例のカメラをぶら下げ、見知らぬ町内をほっつき歩きだした。かくいうこの男こそ、長岡マイルという名の帽子をかぶった男、つまり僕である。

3 ● 「映像作家」以前

ここまでやってきたのは、まったくの偶然の結果であった。祐天寺の安アパートに住んでいた時分に始めたばかりのTwitterで、〈ご近所検索〉というものをやり、たまたま近くに住んでいた或るイギリス人と仲良くなった。「オレはどこかに飛んでいきたいス」的な青臭い中2のようなことを言ったのだと思う。というのも、ちょうどこの頃入って間もない会社をナマを言ってクビになり、脳味噌が煮えたようになっていたからだ。ロクな経験も知識もない自分に、何が残っているのか?…そんな恥ずかしい自問自答を今更のように始めてしまった。

 ずっと学んできたんだし、やっぱオレには映像しかない。ある日そう結論した。今やちょいと頑張ればイッパシの機材が廉価と呼べる価格で手に入る時代となった。劇場公開というお題目を唱えなくても、インターネットで公開することができる。自分には何もないが、けれどもすべてを自力でできなくはない。というか、それをやりたい。日本全国あらゆるところへ行き、自分自身で何かを撮るのだ…。だが具体的な候補地などない。皆目分からない。というか僕はそもそも日本全国のことなどなんにも知らないのだ。そして1億2千万人もいる日本人の、ほとんど誰をもしらないのだ。されどなのか、ゆえになのか、無性にどこかに行きたかった。特定の「どこか」ではなく、不特定の「どこかしこか」へ。そういう想いが上述の青臭い発言につながる。友人知人たちは誰もがヤメトケと言った。だがそのイギリス人は「面白いじゃん」と真顔で言った。そしてなんでもないことのように以下のように言葉を続ける。

 

「徳島にある神山って場所知っている?おまえそこいっちゃえよ」

 

その会話から暫くして、僕は東京出た。出るにあたって彼の会社に雇用されることになった。個人で行くのではなく、会社の新事業の立ち上げとして行くということになった。カネもコネもない若造にはこれしかないのだと彼が考えたんだろうと今にして思う。ハナシはどんどん進み、新しいimacや社会保険に至るまでの様々を支給してくれることになった。何ら有していなかった僕が、こうしてモデリングされていった。まったく、この非人情の時代に奇跡のような事態が起きたものである。僕は親の結婚資金と、このイギリス人(トム・ヴィンセントというのが彼の名前だ)の任侠心と遊び心とに支えられ、向こう見ずで当てずっぽうの旅に出ることになった。

4 ● 中継地から終着地に

着いた先の神山町は、僕が来た当初は「知る人ぞ知る」相当マイナーな場所だったはずだ。けれども今では、数多くの人が当たり前のように知る場所へと変貌をとげた。一部で「地方創生の象徴」とまでも言われるているともきく。都心のIT企業の数々がサテライトオフィスを出し、移住者が大挙して押し寄せ、幾多のカフェやレストランが出来ていく。山奥の過疎った中山間地に起きた出来事としては、まさに奇跡ともいえる変貌ぶりである。…だが僕が住みだしてから暫くは、ほんとうにゆったりしていた。夜は発情期を迎えた牡鹿の鳴き声が谷間にこだまし、タヌキやイタチが裏庭を嗅ぎ回っている。近くの畑では婆ちゃんが立ちならぬ座り小便を堂々としている。素晴らしいじゃないか。様々な生活用品は神山のNPOからの支援で過不足なく事足りた。車はNPOの理事長の息子さんが乗っていたという車を借りた(しかも僕が乗りつぶした)。他人に怯え、常になにかを警戒しているような東京での日々が、家にも車にも鍵をかけないで寝るという日常に変わった。この種の安堵感は、今までほとんど味わったことがなかったように思える。

 かえすがえすもここは「目的地」ではなく、ただの「中継地」であったはずだったのだ。だがいつの間にか7年の歳月が過ぎ、前言の宣言を翻して結婚する。人並みに子供2人を授かって、遂には高齢の両親まで千葉の実家から呼び寄せてしまった。これを書いている現在は、神山町のおとなり佐那河内村(さなごうちそん)という徳島で最後だという「村」の、とある山上にある一軒家で「中継地」どころかほとんど「終着地」として、家族でまったりと暮らしている。なんちゃって阿波弁を駆使して平然と地元の人々と軽口を交わし、「映像作家」と言われる未来が待っているとは、旅に出たばかりの時点では思うべくもない。だが少々、身の上話が長くなった。こういう事情というか、イキサツ的なものは、これからこの連載(?)の中でちょっとづつ書いていくことになると思う。

5 ● 概要的なこと。

 ハナシを瀬戸内海に浮かぶ島に戻すことにする。これだけタメにタメというて言うのもアレだが、撮影日誌的なものをつらつら書くのもどうかと思うし、「映像コラム」という本稿の性質上、映像を見てもらうのが最大の主眼であるので、映像内で語りきれなかったものを補完補足する感じで以下を書き進めていこうと思う。

ちなみにこの映像、撮影は全部で5日ほどかかった。祭が2日、インタビューが2日、冒頭のタイムラプスと町の風景で1日である。元々の発端は、「これが最後の祭になるかもしれないので、どうしても記録を撮って欲しい」と急遽依頼されたもので、後でどうするかというプランもないまま撮りだしたものだった。(人生そんなことばっかりだ)。祭を撮って暫く放っていた時、不意にロシアのトヴェリという場所の、METERSという映画祭から何か出してみないか?という打診があり、それでこのまま放っておくのもアレだからという感じで、インタビューとインサートを再撮影し、映画祭の応募規定15分以内で完成させたのが本作である。途中のインサートに使用している写真は、同行の女流カメラマンGABOMIさんの提供。音楽は友人のピアニストの野本晴美さんらに、無理を言ってラヴェルの曲と彼女の曲を収録してもったのを使用した。(結果、めでたく審査員特別賞のような賞をもらったが、獲得したはずのトロフィーはついぞ届かなかった…。)

 

さて祭りである。正式には住吉大祭という。2年に1度、2日間に渡って行われる。だが準備等々考えれば、1週間かそこらは最低でもかかっているんじゃないかというのが素人目にも偲ばれる。これを撮ったのは2010年で、最後最後といいながら、つい先日の今年の8月にも祭が行われたと風の噂で耳にした。さて。大雑把に言って島には集落が4つあって、その集落単位で組を作っている。三役などの当番はこの4つで順繰りに回る。一応書いておくと、東ノ組、中ノ組、西ノ組、西浦組の4つ。映像中の出てくる男たちの背にこれらの文字が書いているのに気づかれたかもしれない。

祭の運営をするための、古い古い規約〈若中規約〉があり、「これは神のための神事であるからして門外不出であるぞよ」みたいなことが書かれていたのか、これまで島外に向けて宣伝等行うことが一切なかったのだという。司馬遼太郎なんかが〈若衆〉のことをコラムを方々で書いていたはずだが、ああいうイメージだろう。「ほへー」と思わず漏らしそうになるほど、あらゆることがガチガチに決められている。たとえば映像前半太鼓台を作り上げるシーン。大鼓を紐で括る人は一子相伝の特定の家の人がやらねばならない。たぶんすべてをあげつらっていけば、どんな役にも北斗神拳並にうるさい伝承云々があるのかもしれない。 

ちなみに15歳から47歳までが〈若中〉の範囲。この中から色々な役員を出す必要がある。冒頭に書いた怒号し続ける粋な浴衣姿の強面たちもこの役1つの〈棒ツキ〉という役。細かいことは良くわからないが、彼らは青年団長、若手リーダーといったような印象であった。それと特筆すべきは2日間で4回も衣装を変えるらしい。それぞれが自前でやっているだろうし、高そうな帽子やらを被ったままで海に突っ込んでいったりするのでこ、れは服代・クリーニング代なんかも馬鹿にならないはずである。誰かから聞いたような気がするが、「帽子の値段が8万」とか言っていたような記憶も。48歳から上は「中老」と呼ばれてお目つき役的な存在だとか。撮影しながら身をもって分かってきたが、とにかくこういう硬い縛りがやたら多いのがこの地域の印象であった。

6 ● 撮影前に考えたこと  

まあというわけで知る人ぞ知るというか、これまでは島民以外はほぼ誰もしらない祭だったということだ。僕は学者ではないし頭もあまり良くないので、柳田国男やら折口信夫やらの大先生たちが取り上げていたかどうかは分からないが、とにもかくにも「秘祭」と呼ぶに実に相応しい祭りである。メディアが撮り尽くしているようなものは、あえてやろうとする気は中々起きないというのが正直なところ。まずここがポイントであった。 

そして太鼓台ごと海に入ってしまうというのが二つ目のポイント。聞いた途端に「うわあ、いい感じで狂ってるな」と思って、それは見たいな撮りたいなと。元々は旧暦6月にやっていたらしく、その時は満潮と重なってそれで海に入っていたのをある意味再現するために海に入るコースが採用されているということらしい。住吉さんは海の神さまであるし、女木島島民は今でこそ違えど一昔前までほとんどが漁師であったというし、その男たちが往時を偲んで勇壮に海に突撃していくのが実にいい。

3つ目も書いておくと、「女人禁制」っていうのを堂々とあっけらかんと公言していること。このジェンダー問題たけなわな時代にですね堂々とそれを言えるんです…。しかもですね、こう言うと怒られるかもしれないけども「女木島」といういかにも女々しそうな名前を冠した島がですね、めっぽう男々した感じでやっていること、それがいいんです。女性は太鼓台〈ちょうさ〉を触ることは一切ゆるされないし、祭の当日は家の中にもまったく女っ気がない。奥さんたち婆ちゃんたちはビビっているのか、達観しているのかどうかは分からないけど、遠くから見守るだけで一切祭には登場してこない。元々漁師さんという職種は、海に出ると命がけなものだから、月のものとかその類のものにたいして〈不浄〉と呼び、そこまでやるかというぐらい相当に忌み嫌っていたらしいが、これを「女性蔑視」と見る筋もあれば、いやいや「女性を守るため」にしてきたことだという向きもあり、気安く入り込んではいけなそうな話題なので早々に退散しなきゃだけれども、それにしてもこれだけ堂々と伝統を背負って「ノー」と言われると、なんか妙なスッキリ感があるのはなぜでしょうか…。 

最後にもう1つ。ポイントは「神への意識」という、書いてみると実に仰々しいもの。具体的には、太鼓台と太鼓乗りの少年たちを絶対に見下ろしてはいけない。少年たちは本当に神の化身のように扱われ、地べたを歩くこともできない。ケガれた一般ピープルは、少年たちに触れることとも、太鼓台の半径5m以内に入ることも絶対に出来ない。

「近づくな」and「見下ろすな」…撮影に及ぶ際の注意事項としてこれを重々念押しされた。だが当日、実際太鼓台に接近してしまった一人がいて、殴られんばかりの勢いで説教されていたのが頭にこびり付いています。「礼に始まり礼に終わる」と映像の中で、この時一番祭の要職にあった橋本時雄さんが語られているけれども、皆本当にこれを守る。とにかく脱帽、お辞儀の遵守に、神様への対応にピリピリしている。最初橋本さんにお会いに行く時、「機嫌が悪くなると大変」などと脅されることもあって相当ビビりながら伺ったのであったが、本能的にイの一番に脱帽。脱帽の効力か、なんとか取材させてもらえました。無意識にだけども、インタビューの時も気づいたら僕は椅子から床に膝まづいていて、下から見上げるような格好で撮っておりました(苦笑)

 というわけで、こういう4つのポイントがあって撮影に行ったというわけです。さて、ここまでワケシリ的なことをしたり顔で書いているワケだが、なんてこたーない、もらったパンフレット等の内容をそのまま書き写しているだけで僕自身は撮影中ほとんど何も分かっていなかった。他の撮影でも、予備知識ゼロで行く場合がほとんどである。これは言い訳のようにも聴こえるかもしれないのだが、僕はどこにいこうと、民俗学者のように詳細をあまり聞かない。太鼓台の造形や神事の時間、食事の内容、来歴に至る隅々まで僕はあまり興味がない。そういうのは誰かがやってくれればいい。興味があるのは人々の顔と姿、そそして目には見えないその土地の神/産土(うぶすな)との関係だけだと思う。そう、言い切ってしまっていい気がするので、しちゃうことにする。

6 ● 撮ってわかったこと。

海上タクシーの双胴船に乗って夜の波濤を蹴って鬼ヶ島の舞台かもしれない女木島へと渡り、オーテと呼ばれる石垣を大手を振って越え太鼓台のところまで行ってからの2日間、自分の持てるすべてを投入して撮影した。その撮影者の胸中には何が残ったか。橋本さんの睨みをおそれたのか、神の祟りを恐れたのか、根性なしの私は遠くからCanon70-200の長玉を多用し、ひたすら仰角で撮った。映像最後の住吉神社境内での太鼓台の揺さぶり。あそこは伝家の宝刀ツァイス50mmで撮った。なぜかピン送りが完璧に出来、すべての行動とポジショニングが完璧にこなせているような感覚になった。あれはなんだったんだろうか。 

意外にも「礼に始まり礼に終わる」という言葉がやたら頭に染み込み、その後の僕の撮影者としての態度を決定づけたかもしれない。タブー視されているもの、やめろと言われたものはやめる。神さま的なものはすべて見下さない。そして無意識に、年長者だけでなくてもインタビューなどではだいたい見上げるような格好になっている。さてそろそろ本稿を締めくくる段になった。「祭ってすごかった」とか「みんなのエネルギーに感動した」みたいなことじゃなく、課題的なことを書かねばならない空気になっている。だーがしかし、僕はなにかをジャッジしようとしているわけでも、する権利もない。ただの傍観者ならぬ傍撮者、もしくはちょっとだけ立ちいるのを許された「関係者以外」であるに過ぎない。その中で気づいたことを2点ばかり挙げておく。

(課題1.古過ぎる規約の改定は可能かどうか)

「撮影しながら身をもって分かってきたが、とにかくこういう硬い縛りがやたら多いのがこの地域の印象であった」と上に書いたが、それは明治初期に作られたという規約にのっとって運営されているというのが最大の理由であろう。強烈なマッチョイズムに「なぜかスッキリした」とも書いた。だがそれはこちらの身勝手な心象であり、当事者たちにとってはどうなのかとなると、ちょっと難しいだろうなと思う。なにせ古、そして狭い、昔ながらの集落である。先代、先々代の喧嘩を未だに引きずって口を聞かないとか、年功序列が強すぎて50を過ぎても若造扱いされるとか…そいういう問題が噴出しているはずである。司馬遼太郎が書いた〈若衆〉は、若手リーダーと長老とは同格だと書かれていたと記憶しているが、そんなことはなさそうな現在の若中の制度と規約。それを当世風に変えれるかどうかが、「最後」にならないための継続的課題かと思われる。(もっとも僕が取材してから今年まで4回ほど祭は開催されたと思うので、この辺り今はどうなっているのだろうか気になるところである)

(課題2.太鼓乗りとカキテは今後どう確保するか)

「子供がおらんのよ、子供が」と橋本さんが若干センチメンタルに述懐されていたように、過疎化による子供の減少が、祭にとっても、島自体とっても一番の課題でることは間違いない。参加する子供たちにとっては〈大鼓乗り〉になることは、一生の誇りとなるものだろう。またそれを遠目から見るだけの者でも、なにか自分より大きな存在とつながったような心象を与えられることだろう。学校のスケジュールとの調整なんかも色々大変ではないだろうか。そういえばインタビューした〈太鼓乗り〉の少年は、島を出て高松市内に住んでいた。

 仕事も漁業や役場、農協、漁業組合等しか島内にはなく、大多数が島外へ出ていく。祭の時はとかかさず遠方からでも帰ってくる人もいれば、もはや消息も不明にな人もいるだろう。解決策はただ1つ、よそ者をどれだけ混ぜるかということだ。映像内に瀬戸芸のボランティア団体である〈こえび隊〉のメンバー山本さんのインタビューが出てくるが、カキテの絶対数をいかに確保するかを考えると、むしろ彼らがそのうち主力になっていかなければ出来なくなるはずだ。徳島の山村の祭では、カキテがおらずに山車や神輿に車輪を付けて押すという本末転倒なケースも多々見受けられる。こうなってしまったら死んだも同然。未来の規約はどうなるのだろうか。

7 ● 終わりにかえて

さて長々と書いてきたが、これはもう6年も前のことであるので記憶違いなどあったらご容赦願いたい。この当時は今考えたら背筋が寒くなるほどの技術力であった。ピントも外す、音声マイクの電源も入れ忘れる、様々な機材を家に忘れる…そんなことが日常茶飯事としてあった。いろんな知識も全然なく、手探りだった。

4Kで撮ることが当たり前になった今、本稿を書くために久しぶりこの5Dで撮った映像を見て、懐かしさとともにもはや遠い歴史の一部になってしまったような感覚を覚えた。群衆の中に写っている老人の誰かしらも、すでになくなった方もいるだろう。冒頭で『桃太郎さん』の歌をだまし討にあってイヤイヤ歌ってくれた婆さんは今も健在だろうか。

 一つだけ今でも覚えている強烈な記憶がある。太鼓台が島内の集落内を進み、みなが港付近にいた時であったか。中老たちが軽そうな神輿をゆさぶり、シャンシャンさせている。その横で天狗のお面を付けた一人の男がヒョウキンな行動をとっている。おそらくアドリブであろう。それを見ていた数名の老婆たちが天狗に何かをねだる。すると天狗は老婆の乳房めがけて鼻っ面をつけた。僕は衝撃を受けて、金縛りにあったようにそこに立ち尽くした。これが僕が「決定的瞬間」と呼んでいるものだ。それは「現実を越えてしまうなにか」でもある。うまく説明は出来ないが、こういうものに出会うために僕は旅に出たのだと思う。
 (続く)

長岡マイル

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