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残った後遺症~たくさんの医療スタッフに助けられて~


溜まったストレス


私は、去年(令和5年)2月10(金)から、閉鎖病棟に入院しています。

その日は、カウンセリンで話した通り、家に帰ると辛い環境下に置かれるので、帰りたくありませんでした。

なので、雪の降る中、1人で、交番に行きました。

家の人から「虐待受けてるから助けて欲しいと。」

結果は、「急性期病棟の2人部屋が空いているから入院しよう。」

そういうことになり、仮面パトカーに乗ってかかりつけの病院に着きました。


でも診察では、交番でした約束とは、違ったものでした。

それは、「3つあるうちの、行ったことのない慢性期の4人部屋に入院すること」

でした。

私は、「約束と違う。なんで?」

そう思い、病棟に向かいました。

その病棟は、行ったことのない病棟。

知らない世界で、看護師さんも誰か誰だか分からない状態。。


その中で、私は、だんだんうつ状態が酷くなっていきました。

昼食後、横になっていると、「なんで横になってるの!?起きて!夜眠れなくなるでしょ!」と助手さんに何度も注意され、

看護師さんに病状話したら、「危険だよ!うつ病だよ。それ。」

と言われ、先生に訴えたけれど、「うつ状態になる事は誰にでもある。」

そう片付けられ、私は、どんどん「死」について考える事が増え、身体も動かなくなっていました。





ここからは、行動化の話が出てくるので、読むことが辛い方は、ここで、読むのを止めてください。

私自身、書いてて苦しくなってしまいました。

でも、記録として、そして、こうゆう行動を取ってしまう方が1人でも減りますようにという思いを込めて、発信したいと思います。








4月5日


私は、去年、令和5年4月5日(水)の午後、病院に入院中、外出中を見計らって、病院近くの陸橋から行動化(飛び降り)をしました。
当時のX(旧Twitter)のポスト記録を遡ると、午前中も飛び降りした陸橋に行っていたり、4月5日の別の日も何度も「飛び降りたい。飛び降りて、大学病院に行きたい。」などどポストしてありました。
前日には、外出して、しだれ桜見たばっかりだったのに。
こんな事になるとは、自分でも予想していませんでした。


飛び降りるにも、そこには、太い柵をまたげないと飛び降りることが出来ませんでした。

でも私は、乗り越えてえしまったのです。

建物3階分、7·8mの高さから。

そうして地面についた時、助けを求めようとしたけれど、声が、「うぅ…うぅ…」としか発音できませんでした。

でも、目を開くことが出来なくなったのか、ここからは耳で聞こえただけの情報。

通りがかった人が、「え、待って!さっき○○病院から出てきた人じゃない!?」
「私見てたもん!看護師読んでこないと!」

そう声が聞こえて、しばらくすると、「え、みるくちゃん😭😭😭大丈夫😭😭」
「今、血圧測るからね。」

そう言われて、そこから記憶なくしました。

「緊張性気胸かも。今処置するからね。」
という、医者の声が聞こえました。

そうして、私は、しばらく昏迷状態にあり、耳だけしか聞こえない状態でした。

昏迷とは、反応がなく、激しい物理的な刺激によってのみ覚醒させることができる状態です。 昏睡とは、反応がなく、覚醒させることができず、刺激を受けても眼は閉じたままになっている状態です。 昏迷や昏睡の原因は通常、脳の左右両側の広い領域または意識の維持に特化した領域に影響を及ぼす病気、薬、またはけがです。

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その間、家の人に聞くと、「危険な状態なので、今すぐ手術します。」
と言われ、10時間に及ぶ大手術を2回したそうです。


“措置入院”に切り替える説明の声や、家の人の「少しずつ良くなるからね。」そう言われた声だけが覚えています。

でも自分で、「ここはどこですか?今何月何曜日ですか?」と何度も声を出してた事を覚えています。
そうしたら、「静かにしてね。」そう言われました。


意識が戻った日


4月5日(水)から、約2週間後に私の意識は、戻りました。
真っ先に思ったのは、「ここはどこ?」だということ。
大学病院の看護師さんに聞いたら、「ここは大学病院だよ。」そう言われました。

それから、お腹空いてたので、朝食を食介してもらって食べました。

その日からが本当の闘い。

大学病院主治医との診察·スパルタなリハビリが始まります。


動けない身体-毎日のリハビリ-


私が目覚めて気付いたこと。
それは、身体に、色んな管がついているということ。

点滴·尿管·血栓が出来ないようにするSCD。

ベッド上安静で、唯一リハビリの時だけ動けます。なので、看護師さんに用事がある時は、ナースコール。

動くといっても、まずは、車椅子に移るところから。


今まで出来たことが、車椅子に移ることすら出来なくなったのです。

車椅子に移れるようになったら、尿管が外れました。

次は、オムツ生活です。

オムツ交換してもらう度にナースコール。

態度が悪い看護師ももちろんいました。

男性が怖いのに、男性の看護師さんに、オムツ交換してもらった時も何度もありました。

車椅子乗り降り出来るようになったら、今度は、片手骨折していたので、ぐーも出来なかったので、指を曲げる練習も。

なかなか、曲がらない片手に、整形の手の主治医は、「予後が悪いな…ぐーって出来る??」そう言われた時もありました。

車椅子の乗り降り出来るようになったら、今度は、立つ練習。たって歩く練習。


私は、左足に荷重をかけてはいけなかったので、左足にかける体重決められながら、レントゲンで確認しながら、1週間に1回、4/1づつ、荷重をあげていきました。

そうして、全荷重かかけられるようになったら、歩く練習。

ここまでの道のりが本当に本当に長かったです。。

リハビリ、スパルタだったけれど、大学病院は、OTも無いため、リハビリの時間が唯一の楽しみでもありました。


スパルタなリハビリのおかげで、ここまで歩けるようになったと思っています。
作業療法士さんには、感謝でしかないです🥺🙏


うつ病と診断


大学病院の入院計画書に、「うつ病」「自殺企図」そう書かれていました。

それを見て、「私、うつ病だったんだ…」
驚きと、やっと認めて貰えた気がして、安堵しました。

入院計画書には、「自殺企図」とも書かれていました。
「自殺未遂」じゃなくて「自殺企図」なんだと思いました。
何が違うのか調べてみました。

自殺企図
自殺とは自ら自分の生命を絶つ行為ですが、首つり、リストカット、大量服薬など様々な手段により、実際に自殺を企てることを自殺企図と言います。うつ病などのメンタルヘルス不調により自殺企図に至ることも多く、すぐに医療に結びつける必要があります。

心の耳



精神科主治医との出会い


私が目を覚めた時から、精神科主治医との診察がありました。
大学病院の精神科主治医は男性の主治医。
今まで、かかりつけの主治医は、全員女性の先生だったので、初めて男性の先生。
男性恐怖な為、フラッシュバックを何度も起こしてしまいました。

それでも時々来る先生もいたものの毎日来てくださいました。

言葉で話すのが難しいと思ったら、ノートに自分の気持ちを書いて渡していました。

それに加えて、主治医の先生が来る前に、看護師さんに一声かけてもらうという工夫もしてもらいました。


残った後遺症

今は、リハビリのおかげで歩けるようにもなったし、片方の手も使えるようになりました。


それでも、残ってしまった後遺症…


それは、歩く時に、腰と左足が激痛する事。

痛み止め飲んでも効かないこと。

精神科主治医には、「トイレまで歩けるようになるのがやっとだと思う。回復力がすごい。」そう言われました。

私も歩けるようになるとは、思っていなかったので、ここまで歩けるようになったのは、すごいことだと思います。


終わりに…


歩けるようになった、片手が動かせるようになった事は、嬉しいです。


でも、やっぱり苦しいです。
私の腰には、長いボルトが入っています。

なので、屈むことが出来ません。

長い距離を歩くことが出来ません。

段差を登れるか分かりません。


なので、自分で着替えするのも、やっとです。

片方の手も、もう片手の握力の半分です。

なので、髪の毛洗うことも、ドライヤーかけることも、援助がないと出来ません。

生きているだけで、ここまで回復できたのは、すごいと思います。
でもやっぱり苦しい😭😭



こう思う方が1人でも減りますように。
行動化(飛び降り)の代償はとても大きいです。



※抜釘手術の事は、また別な記事で書かせてください。

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