ようやくだらしない人間になった

 こないだふるさと納税の話題になったとき友人に「わーやってなさそー」と言われたので、なんで?と聞くと「君はスマートに生きるための工夫を面倒という理由ですべてやってなさそうだからです」と呆れ顔をされた。

 圧倒的にその通りだ。彼女は私をよくわかっていて、感心する。

 もちろん私にも「得をしたい」「損したくない」という思いはある。ただ得をして損をしないための方法を調べ、そこに正しく手を打つことがめんどくさくて仕方ない。

 世の中にはそういう「ちょっと調べてみたらうまくやるためのポイントがわかる」とか「一回だけ手間のかかることをすればあとは楽できる」みたいなことばかりであり、ほんの少しのがんばりを積み重ねれば多分、かなり効率的で失敗の少ない人生を送ることができる。

 しかし私のように怠惰な人が多いからこそ成り立っているビジネスも世の中にはたくさんある。サブスクリプションサービスなんてほとんど「使ってないのに解約してない人」のお金でうまく回っているんじゃないの? それが怠慢を正当化する理由にはならないが。

 ところがどっこい実は、幼少期から大学生くらいまで私はなんと「マメなタイプ」を自負して生きてきた。親の買い物でついて行ったスーパーマーケットで陳列棚が乱れていればきっちり並べ直す子どもだったし、中高での授業のノートは異常なほどきれいにとっていた。シャンプーや歯磨き粉は最後まで使い切る努力を惜しまなかった。

 今のこの体たらくにたどり着くまでに、何段階かあった。正しくは「意識的に」何段階か自分をだらしなくもっていったのである。なぜわざわざそんなことをしたのか。

 ひとつは、他人と一緒に暮らすようになったからだ。連れあいの生活習慣は、今の私からしてみても結構だらしなく見える。部屋を出るときに電気を消さない、食べた後の食器をなかなか片付けないなど、細かく挙げればキリがない。

 彼は私以上にめんどくさがりで、提出しなかったら結構まずいことになるような書類でさえも本当にぎりぎりまで着手できない。それを見ていていちいちイラつくことに疲れてしまい、私は自らの「マメ」レベルをあえて落とすよう努めた。

 もうひとつは、そういうだらしなさや隙のある自分をゆるせるようにである。これはかなり大変な訓練だった。

 もともと完璧主義に近かった私は、大人になるほど「完璧」にできることなんてほとんどないことに気づいていく。それでもどこかで完璧を求めてしまう自身の心とのギャップに苦しむようになっていた。

 ○日までにあれを仕上げて、同時にこれもやって……と頭のなかで無駄のない動きをシミュレーションし、その通りにこなしていくことに快感を得る人間であったので、思うような流れで物事が進まないことはまっすぐに私のストレスになった。

 自分が完璧にできないことを心からゆるさなければ、いつか私は破滅してしまう。オーバーに聞こえるかもしれないが、まあまあ真剣にそう思った。

 それで、あえてやらない、あえて手を抜く、をくり返すことにより、ここ5年くらいでようやくだいぶだらしない人間になった。

 その結果が、ふるさと納税や積み立てNISAをなかなかはじめないことなんである。それらに手が回らないほど忙しいわけではない。やればできることだけれどもやらない。やったら何かと得するだろうが、でもまあ、それでもいいかと思えるようになった。

 友人に冒頭の言葉をかけられるようになった今の私をごらんあれ!これはもう「結果的に損をするとしてもやった方がいいことをやらない」とか「だらだらと無為な時間を過ごしてしまう」ような他者や自分を全面的にゆるすという長期的な訓練が実を結んだと言っていいだろう。

 ただもう最近はちょっと行きすぎてきて、そろそろ引き締めをしないとひたすらにだらしない人のまま生涯を終えてしまいそうだ。だらしなくしているのはなんたって楽だからな。

 一度ここまでゆるめたものを適度に引き締める(しかも、だらしなさもゆるしたまま)、なんてことが果たして私にできるのだろうか。また長い挑戦をはじめなくてはならない。

 ああ……めんどくさい……

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