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わたしはポンコツ… できそこないだ 

 わたしの生き方 Part2

                   #創作大賞2023

3度目の結婚

 33歳にもう少しでなる!と言う時に、3度目の結婚(入籍は翌年の6月だったけど)になり、それは20年近く一緒に居た事になるが、彼は自衛官でほとんど家におらず、おそらく一緒に居たのは10年程度なのではないだろうか。

 彼と知り合ったのは私が新潟に居た頃。いったい何年前の話だよ?(笑)
その頃ほんの少しの間、飲み屋さんでアルバイトしていた時にお客さんで来られ、私が一目惚れしてしまいったのだ。その時彼とはほんの少しだけお話した記憶がある。知能犯だった私は、こっそり彼の上司の方に名刺を貰って彼の名前や階級、手紙などの出し方を聞いて迷惑にならないかなど偵察していたのだ。もちろん彼だけの名前を聞いたのではなく、一緒に居た方々のお名前を聞き部隊宛に!という事であれこれ偵察したのだった。
大昔の事なのによく覚えてるもんだ!あの時はとっても楽しかったから記憶に残っている、いらしてた方がみんな楽しい人で、あっという間に時間が経ったもんなぁ。

 その後、彼に手紙を出し続けなかなか会えなかったけど、遠路はるばる来てくれたり私が遊びに行ったり。付き合うようになっても遠すぎて簡単には会えず、会っても短時間で彼も私も相手の事を理解できず、付き合ったり別れたりを2,3度と繰り返していた。知り合ってから15年の間に彼も私もお互い違う人と結婚し、私は2度目の結婚、離婚していた。彼は結婚していても【別居婚】していて、全然奥さんらしい事をして貰えないのに、収入だけあてにされている生活をしていて、ボロボロな精神状態になっていた。かなりの額の借金し、一目惚れした時の面影はまるでなかった。
そんな彼を見て【母性】が発動したのか、その前の彼と居た時の【責任感】からなのか、放っておけない気持ちになってしまい離婚後すぐに彼の所へやって来た。まるで縁のない土地へ、ほぼ一緒に居られない彼の所へ来ても、案外平気だった。どこでも暮らせる気がしていたのだ。関西から新潟へ行って静岡にと、あっちこっち行って暮らして来たから怖いもの無しと思っていたので」、しばらくは大丈夫だった。彼を離婚させるのには苦労したけど。子供が居たのもあって少々てこずった。

 自衛官は転勤がある、それにも付いて行った。その土地でパートをして収入を得て彼の収入は借金の支払いに回した。 パートに出れば職場の人とは仲良くなれる、自衛官の奥さんとも仲良くなり案学暮らしは苦痛ではなかったし、逆に楽しかった。だって留守が多いと自分の自由になる時間が増え、時々実家に帰る事も出来た。ずっと飼いたかった犬も飼う事が出来たからワンコ友達も増えた。PCで自分のサイトを立ち上げた事で、自衛官の奥さんや、自衛隊ファンの人とも知り合えとても楽しい生活だった。
夏と冬の帰省の時は、2人そろってお互いの実家へ行った。夏は彼の実家なら冬は私の実家へと、ちゃんと顔を出すようにしていた 彼のお父さんは病気がちだったので、何かあったら留守の彼に変って私が車を飛ばして会いに行ったりもした。今度の彼の実家はお義父さん、お義母さん、妹二人(一人は私より一つ上)、下の妹は結婚してて旦那さんと姪っ子が一人いた。一番下の妹の旦那さんは高校の教師で島暮らしをしていたので、お互いの帰省が合う時しか会えなかったが、とても素直で可愛らしい妹で大好きだった。 色んな事があった、お義父さんがガンになられて入退院が続いて、多少痴呆気味になられたり、妹の借金問題が勃発して私と彼の実家がギクシャクしたり、お義母さんが【悪性リンパ腫】で亡くなられたりと。私の方も彼が長期の海外派遣の時に私の母がガンになり、居ない間に亡くなったのだ。これは私にとってどうしようもないダメージになった。

海外派遣の間の連絡手段は、彼からくるメールでのやり取りとあちらからの電話だけ。こちらから出来るのは、緊急の場合の連絡先へ電話が出来る程度。親や子供に何かあったとか、子供が生まれたとかの連絡が出来る程度。 派遣されてる彼からの連絡しか、こちらの報告は出来ないのだ。お義母さんの事も派遣中だったので、なかなかうまく連携出来ないこともあったが、何とかお義母さんの最期には間に合い、お別れが出来たのは良かった事だと思う。けど、うちの母の時にした彼のメールでの対応や、電話での内容を思うとどうしてそうなる・・・的な事ばかりで悲しかった。
彼からくるメールは自分の希望ばかりが並んでいて、病で苦しがってる母への気遣い、具合はどうなのか?みたいな問いかけはまるで無し。私にはそれが理解出来ず彼に聞いたことがある。『うちのお母さんの体調とか気にならないの?』と。しばらく沈黙があって『離れてるのに心配して何かなるの?』と返事が返ってきた。心配するだけでなにも出来ないのは、確かにそうかもしれないが、心配している気持ちを、相手に伝える事は大事じゃないのだろうか? 冷たい人と思ってしまう事は間違いなのだろうか?

 一緒になる時に『子供は多分出来ないと思うけど、それでもかまわない?あなた長男だから』と言ったら、『子供にどう接したらいいか分からないし、苦手だから出来なくても構わない』と返って来た。別居婚していて子供に接してないからなのかと思っていたんだけど、彼は『親父と一緒に居るとどうしていいか、分からないんだよね。一緒に居たためしがないからさ。子供の頃、滅多に顔合わせ無かったから』。彼のお父さんは夜の仕事をしていて、すれ違いの生活していたらしい。なので、彼は母思いの優しい人だけど何かしら、育つうえで欠如してる部分があるんじゃないかと思う。自分の事ばかり要求する、チョットした事ですぐキレる、相手を思いやる気持ちが足りない・・・そんな気がする。彼はとにかく無口だしインドア、めんどくさがり。お酒を飲むと饒舌になり陽気になる、その時に彼が思っている事、私が答えを欲しい事を話して問題を解決するが、よく朝お酒が切れると別人になるのが厄介だった。私のする事に関して文句は言わない人だったから、やりたい事はさせてくれたから犬を飼う事も出来た。彼は犬や猫を飼ったことが無かったので、最初はとてもぎこちなかったけど、犬の方
が心を開いてくれて懐いてくれ、私が仕事で留守にするときはちゃんと面倒を見てくれた。けれど彼と私の間には、ずっと距離があったように思う、のは私だけだろうか。

 うちの実家で彼と私が衝突した時、母が驚いていた。『いくら実家に馴染んだとは言え、あの態度はないんじゃない?いつもあんななん?』と聞かれYESとしか言えなかった。母は『あんたは男性に縁の無い子なんかなぁ』と悲しげに言って『あ、ごめん』と謝られた。その後も些細な事で切れる彼に驚く事もなくなり『あー、またや』とあきれる様になった。
また、彼の実家の方と金銭的な事でもめる様になってから、彼の気質や性格が何かしら間違っているのは、親からの家の中での教育の問題、なのかもしれないと思うようになった。
色んな小さな行き違いや、熱量の違いがだんだんと我慢ならなくなってきたのを母はきっと見越してたのだろう。
『離婚するのは定年してからにし、ちゃんと貰えるものは貰って出てきなさい』と言われていた。2度目の離婚の時、退職に関して何も貰わず出てきたことを母は呆れていたのだ。『あれだけの事をして何も貰わないなんて、アホすぎる』と呆れ、その二の舞いにならないように釘を刺したかったのだろう。これが遺言と言う形で私の気持ちの中に残り続けてしまった。

 彼が定年する7年前に母は胆管癌でいなくなり、私は独りぼっちになってしまった。子供もいないし兄弟もいない。いるのは可愛いペットの犬たちだ。母の遺言を守り定年の1年後に私の気持ちを置手紙にしたためて家を出た。彼からの回答を聞き出して貰う為に弁護士さんをお願いした。が、一向に彼からは返答がない。弁護士さんが連絡してもちゃんと話そうとしないと言われた。そして1年後、しびれを切らして彼の職場へ直接連絡して繋いでもらい、翌日会って話すことにした。 
ローンが残っている家はどうするのか、離婚する事は認められるのかなど話した。彼は『何も知らない弁護士を通した事が気に入らなかっただけで、離婚するのに文句を言うつもりはない。家も売る方向で考えてる』と言う言葉があったので、それを全部文字として残した。家を売る事に関しては友達に不動産屋がいるから、私に任せて貰い残りのローンの金額+αで売る事ができ、彼の転居先も決まり離婚届もすべての欄が記入されて戻って来た。  家の事が片付いたら、簡単に離婚ができ予想より多くのお金を財産分与してくれた。

一番大きな出来事

 私の結婚は何かしら出来事があって、その結果が結婚と言う形になっている。 
最初は親の都合、【父親の転職からの移動】が嫌だったから。2度目は【父親が他界した事による周りとのもめごとからの逃避】、3度目は【惚れた男が堕落し過ぎていて立ち直らせなくては!】となって。
どれもこれも【本当に好きだから、愛しているから、ずっとそばに居たいから】と言う、愛情からではない・・・から続かないのではないかと、自分を分析するとそこに行きつく。

人を愛するという事が出来ないんだと思う。好きになる感情はもちろん分かるし、人を好きにもなるけど。【愛している】まで発展しないんだと思う。『愛するって気持ちが分からない』んだと思う。どうしてそうなっちゃったんだろう。

 そういえば最初の恋から、彼が出来る所からして波乱気味だったもんな。高校一年の5月だったかな? 小学校からの親友が高校の友達に男の子を紹介されたけど、自分は他に好きな人がいるのでダメなんだけど、友達を紹介するからと引き合わせられたらしい。私にとっては初めての紹介で物珍しさもあって会いに行った。正直だけれどちょっと悪そうで、でもとても楽しい男の子だったから、お付き合いすることにした。彼の住んでいる所と、私が通ってた高校が近くだったから、学校の帰りに会って家まで送って貰ったり、バイクの後ろに乗せて貰って出かけたり。ある日彼が申し訳無さそうに『騙してるんが嫌やから言うけどな、アイツから連絡来て会ってん』これだけで私には分かった。そういう子やった。『もうええよ、分かったから。ごめんな、嫌な役目させてごめんね』といって別れた。その後の苛立ちは酷かったらしい。母に大笑いされた記憶がある。まあ、その後の彼女への復讐はご想像にお任せします(笑)
その彼とはその後も色々とあったけど、今現在も交流があり、お互いにいい年になって身体の心配する関係になっているから、男女の関係は面白いもんだね。

 私が最初の結婚で大ごとをやらかして新潟へ連れて行かれ、親の知り合いがやっているレストランで働いて時々父のお店を手伝ったりしていた。その時父の事を【新潟のお父さん】と慕ってくれてた大学生が数人いた。その中に北海道出身のO君と新潟出身のNさんのコンビがいた。たまにもう1人2人と増えてお店にやってきたけど、その2人はいつも一緒に出歩いていた。O君は私の1つ上、Nさんは6つ上だったと思う。父はO君の方がお気に入りだった様で、2人が来るとニコニコと嬉しそうに仕事をし、一緒に飲んでいた。もし本当に息子がいたら、あんな風に親子として過ごして居たのかな?と実の娘の私が思うほど、お気に入りだった。けれど私はNさんが好きで、2人が来ると私も混ぜて貰って3人で飲みに行った。少しでも長くNさんと一緒にいたかったから。O君は私がNさんが好きなのを知っていたし、Nさんと一時期付き合いかけた事もあるのも知っていた。Nさんにはれっきとした看護師さんの彼女がいて、少し2人の仲がギクシャクして居たんだと思う。そんな時に私が告白してしまったのだから、Nさんの気持ちもふらついたって仕方無いだろう。私にとっては好タイミングだったけど、そんな期間は長く続く訳もなく、バキッとキレイにふられてしまい、大荒れに荒れた。その荒れた、大荒れの時もO君は何も言わず理由も聞かず、側にいて好きなだけ荒れさせてくれ、永遠と飲み続ける私に付き合ってくれた。彼はとても紳士だった。酔っ払いの泥酔している私をしっかり介抱してくれ、泣き続ける私の背中を優しくさすってくれて。泣き疲れるまで、飲み疲れるまで付き合ってくれて、部屋まで連れて帰ってそっと寝かせてくれて、自分は自宅へ帰るか他の店に飲み直しにいったりしてたらしい。

 そのO君が大学を卒業する3日前に、いきなりプロポーズされてびっくりした。『なにがあっても守るから、僕のそばに居てくれませんか?就職先が新潟じゃないけど、一日も早く仕事を覚えて迎えに来るから、まっててくれませんか?』と言われた。本当に驚いた、腰が抜けそうだった。だって、彼には迷惑しか掛けてないんだもの。謝るしかない。O君が私の事を好きなのを知ってて、彼の好意を知りながら自分勝手に付き合わせていたのだから。そんな酷い事をしてたのに、O君は「一緒にいられて楽しかったよ!だから気にしないで!と言ってくれる人だった。

 もちろん『こんな私でいいのなら、よろしくお願いします』と、彼からの告白をお受けした。その後、一緒に父の店に行って報告、父は今迄見たこともない笑顔で喜んでくれ、母は嬉しくて泣き言葉を発せられなかった。卒業式には北海道から彼のご両親がやって来られ、紹介され喜んで貰えた。卒業後は引越し作業や、彼の北海道への帰省、就職先の会社の研修などでゆっくり一緒に出掛けられる日は少なかった。彼と久しぶりにゆっくり時間が取れたので、映画【ブラックレイン】を観に行った。2人とも優作さんが好きだっから。映画を観て父の店に食事しに行って、その後飲みに行って、のフルコースで2人ともヘベレケになるまで飲んで。

 彼の研修が始まる日が近くなるにつれ、寂しくて仕方なくなった。『すぐ迎えにくるから。時間が取れたら帰ってくるから』と、言い聞かせるようにいつも言ってくれていた。その言葉を信じて、彼にして貰えたことを、早くちゃんと彼と向き合って彼の為にしたいと思っていた。

 彼が研修の為に東京へ行き、研修が終了したらお隣の富山へ配属になった。新入社員の彼らは覚える事も多く、仕事に追われる毎日だったのだろう。彼からは毎日決まった時間に電話がかかって来ていた。その日にあった面白かった事や大変だ事など、面白おかしく話してくれた。初任給日が近くなって「なにか欲しいのある?」と聞かれたので、「私じゃなくてお母さんにプレゼントしてあげて、うちはその後いつでも買って貰えるやん!」と返事した。

 初任給の日のは週末、土曜日だったので父の店は忙しすぎて、いつも彼からの電話がかかってくる時間が過ぎてる事に気付いたのは、2時間以上経ってからだった。父も「今日は電話遅いな」となにげに気にしていた。「土曜やしお給料出たはずだし、先輩と出かけてるんとちゃうかな?」と、本気でそんな風に思っていた。
22時過ぎに彼の勤め先の先輩から、私宛に電話がかかってきた。「O君の勤め先の⚪︎⚪︎ですが、しっかり聞いて下さいね。O君が今日の夕方、交通事故で亡くなりましたので、ご連絡させて頂きました。O君から何度も何度も大切な人なので、と聞いていたので急いで連絡しました。」 
 一体何を言っているのか解らなかった、冗談だと思いたかった。なにか悪い冗談なんだ。電話の続きを聴ける余裕などなく、誰かに電話を代わって貰い近くにあった椅子に崩れ落ちた。父は何があったのか電話を代わってくれた人から事情を聞いたのだろう。まだ営業時間だったけど、店閉めてしまった。「アイツの後輩や仲間が来るやろう、入られへんかったら可哀想やからな」だといっていた気がする。私は彼と良く一緒に行ったお店に飛んでいって、連絡があった事を店長に話し泣きながら、スタッフと一緒に彼の好きだったお酒を彼の話をしながら煽った。いつの間にか眠っていた私を、母が迎えに来て富山の彼の所へ行くことになった。

 私、母親、N先輩と彼を兄と慕ってた後輩君の4人で富山に。ついて彼の顔を見た途端、私の周りが大泣きして私は泣くキッカケを失ってしまった。彼の頬を撫でた時あまりの冷たさに本当に驚いた。もう戻らないことを実感した。悲しかった、悔しかった、時間を戻して欲しかった、何も出来ない自分が情けなかった。

 周りがずっと泣いて、それをぼんやり眺めていたり、彼の会社人達から彼の仕事ぶりや、彼がとても嬉しそうに私の話をしていた事を聞いた。職場の彼が居た部署の人はみんな、私の事を知っていて温かく受け入れてくれた。彼のご両親も北海道から来られ、やっと少し泣く事が出来た。お義母さんの憔悴しきった姿をみたら、やはりしっかりしないと!と言う気持ちが働き泣けないでいた。

 お通夜、お葬式を富山で執り行い、49日は北海道でという事で、それぞ
れの場所に帰った。しばらくは仕事出来ない状態、事実を認められない自分と、「連絡がない事で本当に居ないことを認めなきゃ」と言う自分がいて、どうしていいのか分からず弱い私はお酒に逃げていた。毎晩ボトル1本以上のお酒を飲み泥酔し、眠る。拒食症になり、お酒を飲まないと寝られない不眠症にもなった。あっという間に痩せて、周りの人に心配をかけた。 親と一緒に仕事をしていたのが、救いだったのかもしれない。人生の先輩の母親が精神的ケアをしてくれたから、立ち直れたと思う。

 そう、立ち直れたと思うけど・・・本当は立ち直れて無いのかもしれないと思う。今もまだ立ち直れて無いから、『人を本当に愛せないでいる』のかもしれない。愛して貰った、自分のすべてをかけて愛してくれた。何もしてあげられないまま、居なくなってしまいどうしていいのか分からないのだ。何も出来ない事は分かっていいるし、戻ってこないのだからと言うのも理解している。彼がしてくれた様に、誰かにしてあげればいいのだろうけど出来ない。なぜ出来ないのかが分からない。

 好きになった人はそこそこ居るけど、『愛する』と言う感情はどこかへ置いてきてしまったのかもしれない。『愛する気持ち』が分からない。どうしてこうなったのか、本当に分からない。死ぬまできっと分からないままなんだろうな。もう彼の様に愛してくれる人は居ないだろうから。

 私は本当に、ポンコツだ、情けないなぁ・・・

 自分の事をここで少しずつでも吐き出せば、ポンコツさ加減も減ってくるのだろうか。そんな自分勝手な使い方をしても良いのだろうか。アダルトチルドレンの事についても、もっと書きたい気持ちもあるし。 
 ポンコツな私も、私だから仕方ないんだけど。


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