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「大人数」 が苦手なのはなんでだろう?シェアハウス暮らしを始めて見えたもの

大人数が苦手である。

それをはっきりと自覚したのは幼稚園生のときだった。幼稚園のお泊まりで誰よりも遅く起きてきたわたしに、「じゃあゆきちゃんは黄色ね」と戦隊ものの余り色を与えられた瞬間、うわ、嫌だー、と思った。

大人数だといつもこうなる。おかあさんごっこでは犬か赤ちゃん役で、何もしなくてもいいのはラクだったけれど、どこか所在なさを感じていた。このあたりから、「自分の好きなことができないし、言いたいことも言えないし、大人数ってしんどいな」と感じるようになった。

一方で、仲の良い友だちと2人で雑談しながら自由帳に絵を描いている瞬間は至高だった。この世に2人しかいないような感覚。あなたはわたしのことが好きで、わたしはあなたのことが好きだという相思相愛感。そこに安心感を覚えてから、2人で過ごすことが多くなった。

その子が学校を休んだときはひとりぼっちになってしまうけど、それでも良かった。「その子さえいればいい」と本気で思っていたし、特段困ったこともなかった。だから、「2人でいること」が悪いことだと思ったことがなかったのだ。

飲み会での会話を1ミリも覚えていない件

それが覆ったのが大学生のときである。大学のサークルにはたくさんの人がいて、これまでに感じたことのないような焦りが生まれた。飲み会の席でちびちびとカシオレを飲みながら、「みんなと話すって、どうやればいいんだ?」と戸惑った。

いわゆる「みんなと話す話題」と「個人で話す話題」は性質が異なることもこのときに知った。みんなに共通認識があって、ちゃんと理解できる範疇であること。あまり重たくなくライトなものであること。

間違ってもマニアックなアニメの話をして場を白けさせてはならないし、ヘビーな悩みごとを打ち明けて笑い飛ばされでもしたら1番傷つくのは自分である。

もう、何を話したらいいのか全然わからなかった。それを埋めるかのように、飲み会ゲームの存在があった。ゲームをしているあいだは雑談のネタを考えなくてもいいので、それはそれでラクだったけれど、飲み会が終わったあとに、「何話したっけ…」という感覚だけが残った。

案の定、私は飲み会よりも「サシ呑み」にハマるようになった。「この人と仲良くなりたい」「喋ってみたい」と思った人を誘ってごはんを食べる。その瞬間は、幼少期に一緒に自由帳に絵を描いていたときのような心持ちでいられた。

そうして大学を卒業して社会人になり、わたしは元通り「基本的に2人でしか遊ばない」人になった。

「代替不可能な存在でいたい」クソデカ感情

最近、シェアハウスに引っ越して、久しぶりに「大人数」を味わったことで、大学時代の感覚がフラッシュバックした。みんな大人なので、自分の好きなタイミングで飲み会を離脱していくし、興味のない遊びは断る。

一方で、私は大人数に慣れていないからこそ、自分のペースをうまく掴めずに誘いに全部のっかって、みんなに合わせていた。それがより自分を辛くさせて、1週間ほど部屋に篭るなどした。

そこで改めて、「自分はなぜ大人数が苦手なんだろう」という往年の課題に向き合ってみると、ひとつの解が浮かんできた。

きっと自分は、代替不可能な存在になりたかったのだと思う。

飲み会でまわりの話を聞いているときに、ふと「今わたしがトイレに行ってそのままフェードアウトしても誰も困らないんだろうな」と思う瞬間がある。実際に多分、自分がいなくても場は盛り上がるし、酒は進む。

それが何となく嫌で、場を盛り上げることに徹していたこともあったけど、性分に合わずに辞めてしまった。

多分この、「自分、いらなくね?」と思う場に顔を出していることに、意味のなさを感じているのだと思う。

現在コーチングも勉強しているので、コーチにセッションをしてもらったときに気付いたのが、自分はすべての事柄に意味づけをしようとしているということだ。

意味のある飲み会。そんな飲み会あるんか???と思うかもしれないが、それでもやっぱり自分はそこにいる意味が欲しいのである。極端な話、「ゆきちゃんがいないなら別日にしよっか」ぐらいの飲み会がいい。

だって実際、サシ呑みはそうだ。どちらか一方の都合が悪ければリスケとなる。どちらか一方がいないと成り立たない。だからこそ、たったひとりのためだけに作ってくれた時間はとても尊く感じてしまう。

大人数=安心安全の場じゃない

次に、大人数が苦手な理由のひとつとして、「愛の濃度」が確かめられないところが苦手なんじゃないかと推測している。

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