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みんな、『コンビニ人間』であってほしい

「皆が不思議がる部分を、自分の人生から消去していく。それが治るということなのかもしれない」

今更ながら、2016年に芥川賞を受賞した、村田 沙耶香さんの『コンビニ人間』を読んだ。

以前海外に行ったときにもチラホラと本屋で翻訳されているものを見ていて、「コンビニ」という題材が日本的で珍しく、海外でウケているのかなぁくらいの気持ちだったのだが、問題はそこではなかった。

端的に言うと、誰もが”ギクリ”とする物語だったのだ。

ネタバレのない程度に話すと、まず、主人公が”世間一般的に言うと”少し変わっている。公園で鳥が死んでいたら、「妹が唐揚げ好きだから持って帰って食べよう!」と思いついたり、喧嘩を止めるために手っ取り早いから、とスコップを持ち出したり、いわゆる”世間一般的に言う”「道徳的」な思考がすっぽり抜けている。

そして、人と会話をするときも「顔の筋肉を動かす」「同僚の口調を真似る」「然るべきところで怒る」というように、まるでロボットのように自分を操作して行う。

この物語は、そんな彼女が「普通」になるための過程で出会った、自分を「普通」でいさせてくれる”コンビニ店員”として働く日常を描く。

彼女の中心にはコンビニがあって、コンビニのために身なりを整え、コンビニのために食事を摂り、コンビニのために眠る。

”世間一般的に言うと”おかしな主人公だが、彼女の目を通して世界を見つめていると、「普通」とは何かを考えさせられる。

妙齢で結婚していないこと。就職をせずにアルバイトをしていること。栄養摂取のためだけに食事をすること。生きる理由がコンビニしかないこと。

主人公の場合は感情もなく、意志もなく、ちょっと極端な例だが、彼女を他人事と思っていたら甘い。

笑いたくもないのに笑おうとしたことはないだろうか。

「わかるー」なんて1ミリも思っていないのに頷いたことはないだろうか。

ギクリとしたら、あなたも『コンビニ人間』だ。

いや、むしろ全人類が『コンビニ人間』であってほしい。

少なくとも、わたしは読みながら、無意識に自分を重ねてしまっていた。

なんとなく多くの人と関わるのが苦手で、大勢で集まる前は、気合を入れて「笑わなきゃ」ときゅっと口角を上げる。

どうして他の人がナチュラルに出来ることがこんなにも苦しいんだろうな、とどうでもいい話に適当に相槌を打って笑う。

それは、「場の空気を乱さないように」「やらないと浮いてしまうから」「みんなやってるから」やっているんだと思う。たぶん。

“人はひとりでは生きていけない”という言葉がある。

この言葉って、ポジティブなんだろうか、ネガティブなんだろうか。

誰かと助けあって生きていかなければいけない限り、時として自分の意思は押し殺して同調しないといけない。それは日本人だから、とかではなくて、社会に生きるものとして。

それって、慣れればそれなりに振る舞えるけれど、やっぱり息苦しくもあるんじゃないだろうか。

同調せずに反論したら「KY」と称されて、人並みに恋愛ができなかったら「こじらせてる」と揶揄されて、削除される。

だから私は、全人類が『コンビニ人間』であってほしいと願う。

「わかるー」と表面上は同意しながら、心の中ではわからないでいてほしい。

もともとはみんな「普通」ではなくて、人生のなかで学びながら社会に馴染む術を身につけていった『コンビニ人間』であってほしい。

そうしたら、「自分っておかしいのかな」と首を傾げていた人が、救われるなって。

だってもともと「普通」なんてないのだから。

みんなすっかり笑顔が板についているだけで、本当は「つまんない話だな」とか言いたいんでしょ。あくびしたいんでしょ。叫び出したいんでしょ。それを抑えているのは「本能」ではなく「道徳」でしょ。

そうであってほしい。



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