見出し画像

私、ミキオ先輩の総理大臣に就任しました vol.2「武器と防衛」

 塾には行かなかった。とてもそんな気分ではなかったのだ。私の目の前に立ちはだかる問題はあまりにも大きく、塾の講義内容が入り込む余地などあるようには思えなかった。

 S公園のベンチに座って、池を眺めていた。

 塾をサボるときは、必ずここのベンチでそうすることに決めているのだ。ただし、今日は一人ではなかった。

「そろそろ十時になりますよ、総理」

「……もう帰っていいですよ、ミキオ先輩」

 ミキオ先輩は、我が家の怪物から私を守り、抱きかかえてタクシーに乗り込んで逃げてくれた。その意味では恩人には違いないが、その後もずっと付き添われている必然性は何一つない。

「そうは参りませんね、我が国の総理がこのように矢面に立たれているのです」

「私、まだミキオ先輩の総理になるなんて認めてませんから」

「認める認めないではありませんよ。君は本条仮名子国の総理大臣で、現にその国民である僕に『助けて』と仰いました。救援を求められたのです。我が国は国連にも未加入ですので、他国からの救援依頼に応える義務はありません。となれば、僕に救援を求め、出動を要請することができるのは唯一この国の首相である君だということになるのですよ」

 ねじまがったロジックだ。滅茶苦茶な話ではないか。このまま警察に通報すれば、あるいはミキオ先輩はストーカー罪で捕まるのかもしれない。

 でも、結局、私はそうしなかった。

 あるいは、この国の法律を適用させないことを選んだ時点で、自国をもつ道を歩き始めてしまったのかもしれない。

「総理はいま困っておられます。家には帰らなければならない。しかし、家に帰れば、あの〈怪物〉が待っている。義務とリスクが共存している場合、社会はそこにある危機に対処しなければならなくなりますね。しかし、手段には限りがあります。我が国には今のところ、護衛のためでもいかなる武器も保有しないことになっています。そうですよね?」

 ミキオ先輩の言う「我が国」とは当然、日本のことではなく、本条仮名子国のことであろう。

「そうですよねって私に聞かれても……」

「総理は我々国民の代表ですから、総理のご判断次第です。もちろん、その決定に対して我々は不信任を申し立てることもできます。確認します。この国は武器をもたず、軍隊も持っていませんが、我が国の法律で、それらを持たないことが明記されているということでよいですね?」

「もし私が総理だというのなら、そういうことになるでしょうね。武器も軍隊も私という一人の国家のためなら必要ないもの」

「本当ですか? 夜道を歩けば、総理のように美しくか弱い女性は危険にさらされやすいですよ。ましてや、家には〈怪物〉がいる。それでも武器ももたず軍隊も保持しないのですか? それはあまりに無謀ではないですか?」

「……どうしろと?」

「僕は何も。ただ首相としてのご覚悟を伺ったまでです。もしも、あらゆる武器をもたずにこの世界と渡り合うのならば、何をもってその代わりとするのか。軍隊をもたぬ国などというのは国家として存続が非常に難しい」

「スイスはどう?」

「あそこは立派な軍隊がありますよ」

「……バチカン」

「バチカンは国家としての軍隊はありませんが、槍と催涙スプレーを武器とする市国警備員がいます。もちろん、軍隊をまったく持たぬ国もありますが、そういう国では何か問題が起こったとき、結局周辺の国の軍隊を頼ることになります。もっとも、それでも軍隊を自国に持たないことがまったくの絵空事だとかお花畑だとかそんなふうには思いません。それはモラルの問題であり、その国家が何を大事として生きるのかという国家精神の選択でもあるでしょう。〈人を傷つけてまで守らねばならないような命などない〉というのも立派な哲学には違いありません。そのような方法を選ばれますか?」

「それは……」

 すぐには答えが出てこなかった。怪物を憎い、と思っている自分がいた。その怪物がよそにいるのなら、見ないふりもできるし、その存在自体から半永久的に逃げ続けることもできないわけではない。けれど、怪物はいま家にいて、つねに私の日常を脅かしている。

 これは──自分が国家なら、内部に侵入してきたテロのようなものだ。

そのテロを相手に、護衛のための方法を何一つ持たないということはとても難しいことに思えた。

「難しく考えることはありませんよ。軍隊はもたずとも防衛組織を持てばよいのです。僕をその防衛組織に任命してもらえませんか?」

「防衛組織?」

「防衛のみを目的として、武器を保有する組織です。平和と独立を守り、国の安全のためにのみ、武器を所有する」

「……それ、軍隊と同じじゃないんですか?」

「いいえ、違います。目的が我が国の平和と独立を守るためですから、ぜんぜん軍隊じゃありません」

 そうだろうか、と私は内心で首を傾げた。いかなる目的であれ、武力を所持するのならばそれは「戦力」であるはずで、ならばそれは戦力をもたず、使わずの精神とは相反している。

「矛盾していると思います」

「矛盾……ですか。そうですね、考えようによっては、矛盾しているのです。その矛盾を是とするか非とするか、それもまた首相のご決断を要します。その矛盾を認めないがしかし、すでに矛盾が存在しているとなれば、どちらかに統一する必要が出てきますね? すなわち、本条仮名子国は、防衛組織を軍隊であると認識し、軍隊を所持する国となるか、軍隊所持を放棄するか、です」

 私は内心でしまったなと思っていた。「矛盾している」なんて言わなければよかったのではないか、という気がしたのだ。

「どうしますか? もちろん、軍隊を所持せずとも、策はあります。まずは自治のために警察だけでも設置するとか、ですね。僕としてはどれでも構いません。今日みたいにいつでも君を逃がす準備はできています」

 なんだかもう国家が存在すること前提で話が進んでいるではないか。本当におかしなことになってしまった。

「じゃあ軍隊は所持しません。もちろん、防衛軍も。矛盾を抱え込むわけにはいきませんし」

「では武器はどうしますか? 警察は拳銃を所持しているところが多いですが、この国ではどうしましょう? まさか警察すら置かない気ですか?」

「……必要ありません! っていうか、もうこんな『ごっこ』はやめてください。私、くだらない遊びに付き合ってる気分じゃないんです」

 ミキオ先輩はじっと私を見つめた。曇りのない瞳に見つめられると、たった今強い調子で言った言葉すら確信が揺らぎ始める。本当にこれは「くだらない遊び」なのだろうか?

「わかりました。では、首相のご意志を尊重します。お送りしましょう」

「え……?」

 思いのほかあっさりと譲歩されて拍子抜けしてしまった。

「ただし、これをお持ちください」

 ミキオ先輩はそう言って私にあるものを握らせた。

「これは……」

 黒い柄が手にしっくりとくる、鋭い刃をもったナイフだった。ミキオ先輩はその刃の部分を押して柄のなかにしまった。飛び出し式になっているようだ。

「ペーパーナイフです。あくまで、紙を切るために存在する道具。万一、危険が迫ったときは、このペーパーナイフの刃先を相手に向けてください。いいですね? ただ向けるだけです。殺傷の意図を持ってはいけません。繰り返しますが、これは紙を切るための道具です」

 ミキオ先輩はそれを私に握らせると、にっこりほほ笑んだ。

 その後、大通りまで行ってから、ミキオ先輩は私をタクシーに乗せ、運転手に事前に金を渡し、私の住所を告げた。それから、私を後席に乗せ、自分は乗らずに言った。

「いいですね、総理。くれぐれもご無理はなさらないこと。そして、万一の際には僕に電話を」

「……はい」

 ミキオ先輩は私の返事に満足したように笑って二度うなずき、ドアを閉めた。車が動き出す。運転手が尋ねた。

「あんた、総理なの? 若いのに」

「望んだわけじゃありません」

「でもいいじゃないか。誰かにとっての総理になるって悪くないぜ。俺にも昔は総理がいたさ。病気で亡くなっちまったがね。以来ずっと首相不在国家だ」

 運転手はなおも思い出話を繰り広げていた。黙っているよりはありがたかった。私は何度か相槌を打っているうちに、これからのことを考え始めていた。

 怪物は今夜、家にいるだろう。きっとまた母親と喧嘩をしているはずだ。仕事に出かけるのは十二時過ぎだが、それも毎日ではない。怪物が仕事に出かけないときがもっとも厄介だ。あの猫撫声で私の部屋に入ってくるときがあるのだ。過去に二回、寝たふりをしている間に身体を撫でられた。もしかしたら、本当に眠って意識を失っている間にも触られているかもしれない、と思うと身の毛もよだつ。

 なるほど、そうか。眠っているときにこのペーパーナイフをもって眠ればいいのか。と思いつつ、でもそれは武器としてペーパーナイフを使っていることになるのであり、いくらこれがペーパーナイフであっても用途が「人を刺す」では、やはり凶器であるし、だいぶ分が悪い。飽くまで取り出して怪物に刃先を向けるに留めるしかあるまいが、正当防衛とはいえ、ペーパーナイフを人に向ければやはりそれすらも犯罪になるのではないだろうか。これは紙を切るための道具であって、などという言い訳がはたして通じるものか。

 いやいやいや、いまのはぜんぶ、怪物がもしも私の行為を警察に通報したらという話ではないか。そもそもあの怪物が警察に通報したりするだろうか? どうもあの怪物は警察なんか毛嫌いしているのではないかと思われる節がある。何か前科でもあるのか、人には言えない仕事でもしているのかもしれない。

「着いたよ、総理」

 運転手が上機嫌でそう言ってドアを開く。もう私の家の前だった。私は礼を言って降りると、なるべく音を立てないようにそっと鍵を開けた。玄関に、怪物が立っていた。部屋はしんと静まりかえっている。もう母は帰ってきているはずなのに──。

「遅かったじゃないかぁ、かなちゃぁん。さっき一緒にいたのは誰なのかな?」

「……あなたに関係ないわ。ママは? ママはどこにいるの?」

 怪物はてへらてへらと笑いながら近寄ってくる。寄るな怪物。殺すぞ。私は叫びだしたい気持ちを必死で押さえる。

「今日は近所の人たちとカラオケさ。十二時には戻るって聞いてる。さて、あと一時間とちょっと。ゆっくり話し合おうか。男の子と出かけたことなんか、ママに知られたくないだろ?」

 私の母親は男がらみに妙にうるさいのだ。いつも私に男友達がいないかどうかそれとなく尋ねてくる。きっと、自分が男でたいへんな目に遭ってきたせいで疑心暗鬼になっているのだろう。くだらない。それどころじゃないよと言いたくなる。

「べつに知られてもいいし」

 ちょっとでも弱みを握られたりしないほうがいい、と思っての返答だった。が、それが怪物を逆上させることになった。怪物はこちらの髪をつかんで、またもや壁に頭を思い切りぶつけた。軽い脳震盪を起こして視界が真っ白になった。学校から帰ってきたときも思ったけれど、今日の怪物はちょっと粘着質だ。今日こそは何かを達成してやろうというような意図を感じる。

腕を掴まれる感触。たった今の暴力を帳消しにでもしようというかのように抱き寄せられる。脂肪の感触に鳥肌が立つ。

「ごめんよぉ、かなちゃんがくちごたえするからさぁ。もっとなかよくしようよぉ」

 いやだ、誰がおまえなんかと。私はセーラー服のポケットの中のペーパーナイフを握りしめ、ボタンを押して刃先を飛び出させる。でもこの至近距離では使えない。とにかく一度身体を離してもらわなくては。

「お土産、あるんだ」

 口から出まかせ。すぐにバレる嘘。でもこの際なんでもいい。一度身体を離してもらえるなら。怪物は身体を離した。

「なんだい、お土産って? うれしいなぁ」

 その瞬間、私はペーパーナイフを取り出して、その切っ先を向ける。

「なんのつもり? ねえそれなんのつもりなの、かなちゃん」

 怪物は、私のペーパーナイフに手を伸ばした。

「近寄らないで」

 そういっているのに、怪物はまるで聞こえていないみたいにずずずずっと手を伸ばし続けた。とうとう手首を握ると、もう一つの手でペーパーナイフを取り上げた。

 それから、怪物は自分の掌にどぐずぶっと刺した。

「大して切れ味よくないよ。これ、ほんとにナイフなのぉ?」

 怪物は、笑っていた。怪物は、本当に化けものだった。私は心臓が駆け出しそうになるのを何とか抑えて少しずつ後ずさった。

 ドアが開いた。外の匂いを漂わせて、母親が帰ってきたのだ。

「ただいまぁ、ちょっと早かったけど……きゃあああああああああ!」

 母は怪物の手から血が出ていることに驚いているようだった。怪物がそれを見て言った。

「おまえの娘、もうちょっと厳しくしつけたほうがいいね。俺にこんなひどいことしたよ」

 それから、私にそっと顔を近づける。

「とんでもないお土産だね、ありがとう」

 私は今日寝るまでにまだまだ続きそうな悪夢の時間を思って気が遠くなった。

そして、思っていた。防衛組織が必要だ、と。けれどその防衛組織は本当に防衛だけで済むのだろうか。いや、済む済まないの前に、私の心は攻撃を望まずに、平和的解決だけを望むようにできているのだろうか? やがて、母親の細い腕による張り手が、私の疑問をふたたび遠ざけた。最悪な夜の記録が、また一つ、更新された。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?