ほんとうにあった淡い話

増税反応を椎名林檎から考えてしまった

 消費税が10%になりましたね。具体的に日常でどう困るか、というと、
まだそんなに実感できませんが、100万の買い物をしたときよりも
1万の買い物をしたときのほうが地味にショックが大きそうな気がしない
でもないのは小市民なせいでしょうかね。

 さてしかしこんな事態なのにとくに内閣支持率は変動する兆しも見えず暢気な国民だなぁとは思うわけですが、一方でこの先15%になろうが25%になろうが、この国の人たちは「やだねぇ」と言いながら大した文句も言いそうにないなぁと思ったりしていて、それはなぜなんだろうな、と。

 そう考えたときにふと浮かんできたのが椎名林檎の「ありあまる富」という楽曲の歌詞。「僕らが手にしている富は見えないよ/彼らは奪えないし壊すこともできない」。これ、まったくそのとおりなんです。たとえどれだけの税金をふっかけてこようと、我々の人生そのものに税をかけることなんてできない。たとえば、ピクニックに行って楽しかった。恋人と朝までいちゃついた。そうした歓びに税をかけてそこから10%歓びを徴収するなんてことはできない。

 そういう意味でいうと、まさに「価値は命に従ってついている」のであり、僕たちがいくら増税されようが、僕らはつねにありあまる富をもっている。これはジョージ・オーウェルの「1984」のような世界になっても、奪うことのできない最終領域でもある。

 ただ……何かヘンだな、何かヘンだな……というのを、じつは椎名林檎がオリンピックのスーパーバイザーになったあたりからずっと感じている。椎名林檎のセンスは抜群によい。「NIPPON」のあざとさを海外に向けて演出できる能力も非常に高いと思うし、もちろん、自国への批評精神も彼女の楽曲は多分に持ち合わせている。

 だが、そのような彼女を国家がスーパーバイザーに取り込んだことによってどうも妙な感じがしてしまう。彼女がここ最近発表したオリンピック向けと思われる動画のいくつかを見ても感じるのだが、たいへん力強く、日本の無意識の力強さがこれでもかとばかりに見せつけられている。それはよい。素晴らしいと思うのだ。だが、それを国家の後押しでやられることによって、べつの意味が生じていやしないだろうか?_

 たとえて言うなら、「ありあまる富」的なテーマを、仮に安倍晋三や菅官房長官の口から聞かされてる感じと言ったらいいのだろうか。
「あなた方の人生の富までは我々には奪えません。せいぜい奪えるのは税金くらいです。さあ増税10%、がんばってください。それくらいしか我々には奪えないんですから」
 椎名林檎プロデュースによって絢爛に彩られる2020年向けジャポニスムに乗じて、この国家が、庶民の無意識にずけずけと入り込んで「まあ我々はそこまでは奪えません」と言っている感じがしてしまう。

 もちろんこれは考えすぎだ。ただし、そのようなメッセージが、「結果的に」あぶり出し文字のようにして浮かび上がってくることは避けられないのだ。単純にいえば、「搾取」と「誇り」のバランスをいまの国家はうまくやりすぎている。我々から容赦ない搾取をする一方で、「誇り」を鼓舞することによって、その搾取さえ大したことではないような錯覚に陥らせている。これが、どれほどの悪行が影でまかり通っていても一向に支持率が下がらない理由の一つなんではないか、とか考える。

 もちろん、具体的にはばらまき政策によって、大企業を味方に取り込んでいるので、大多数の賛成票が確保できているということはあろうが、貧困層のなかにも熱烈な支持層はいることはいるのだ。そして、そういうことを考えたときに、この豪華絢爛な椎名林檎マジック(林檎の意志とは無関係な)と増税への反発意識の低さということに思いを馳せないわけにはいかなかった。

 あなたの富は奪えない。それはたしかだ。だが、その壮大なテーマと、増税という具体的で矮小な現実の搾取を不可思議に合体させていないだろうか? そこは別なのだ。声を上げていいところなのだ。

 だが、祭りの喧噪のさなかには、このような声も聞こえはしないだろう。何しろ、家が火事だと教えられても踊り続ける国なのだ。美空ひばりの「お祭りマンボ」のごとく「いくら泣いてもかえらない いくら泣いてもあとの祭りよ」。そう実感するのは、消費税が何%になった日なのだろう?

 最後までお読みいただきありがとうございます。
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