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私、ミキオ先輩の総理大臣に就任しました vol.1「国家であり総理」

 はじめのうち、何を言われているのか理解できなかった。その言葉は林檎や苺のようなはっきりとした個性をもたず、宇宙の小石のようにしばらくの間私の頭の中を漂っていた。そのため、ここが教室で、周囲にはまだクラスメイトが残っていることも、しばらくの間は忘れ去っていた。ただその不可解な宇宙の小石について、どう考えたらよいものかと、考えるともなく考えていたのだ。

記憶しているところでは、私は前日に五十嵐ミキオ先輩の告白を断っていた。理由と言ってはとくになく、ただそのようなことをまだ考えたことがなく、そして当面それどころではなさそうであることもわかっていたからだった。

 恋だ愛だと浮かれていられるのが高校生とは知りながらも、例外というものは何にでもつきものであるわけで、かく言う私がそうだった。目下私は、私の耳にへばりつく怪物のいびきを何とかせねばならなかった。

怪物とは大げさな。空想めいたことを、と非難されるのもごもっとも。しかし、ではあれを怪物と言わずに何としよう。一か月前から我が家に居座っているあの怪物をすみやかに退場させること。これがかなうまでは、はっきり言って恋も愛も邪魔モノなのだ。

 それなのに、ミキオ先輩ときたら──。

「俺の総理大臣になってよ」

 いつもの甘いマスクでにこやかに微笑みながらそんなことを言ってきたのである。

「……はい?」

「恋人になれないのはよくわかった。だからさ、総理大臣になってくれないかな」

 総理大臣になってくれないかな。

 そのような依頼や要求が、この世に存在すること自体が理解できなかった。それはある日突然誰かが洗濯機をもって現れ、私にすべての洗濯物を押し付けて逃げるよりよほど理不尽には違いなかった。洗濯物ならばどれほど大量であってもいずれは解決できるし、嫌なら投げ捨てればいい。でも、総理大臣になってくれなどという要求に、そもそもそれを拒絶することさえ妥当なのかもよくわからないではないか。

 なぜなら、この国にはすでに総理大臣がいて、私はまだ選挙権も持たぬ高校二年生なのだから。

「いやですよ。だいたい、この国には総理大臣がすでにいますし……」

「俺は今日からこの国を卒業して、君という国家の国民になろうと思うんだ」

「へ、い、いや、わけがわかりません。第一、私はこの国の民でして……」

「今日からは違う。本条仮名子。君はこれから本条仮名子という独立国家として生きることになる」

「いやです。恋人よりいっそういやです」

 本当に嫌だった。私はべつにこの国から独立したいとは微塵も考えていないのだから。けれどミキオ先輩は止まらない。

「いいさ。じゃあこうしよう。『本条仮名子国家は、日本国の領土に住み、日本国憲法に従い、日本国民として存在している』」

「それ、日本国民じゃないですか。だいたい、人間が国家という考え方自体がどうかしているのです」

 これ以上ミキオ先輩に付き合っていると頭がおかしくなりそうだった。だいたい、クラスメイトがみな注目しているではないか。それもそのはず、ミキオ先輩は俗にいうイケメンであり、クラスの女子の大半はミキオ先輩の追っかけ隊のようなものなのだ。

 それが、クラス内でも注目度の低い、いつも教室の片隅で本ばかり読んでいるようなこの女昨日の放課後、突然公開告白をされてしまった。目撃者たちの反応は、悲鳴を上げたり、失神したり、救急車を呼んだり、間違って警察に電話したりとさまざまだったが、私が彼の告白を断ると一瞬の歓喜と平和が訪れた後、今度はいっせいに敵意の眼差しが私に注がれたのだった。ミキオ先輩の好意をむげにするとは! というわけである。もっとも、好意を素直に受け取っていればこの百倍の敵意を向けられていた可能性は大ではある。

 しかしまあ人の噂も七十五日というではないか。私としてはこのまま日々を耐え忍んでぜひとも忘却の彼方へ葬り去ってほしかったのだ。それなのに、ミキオ先輩はどういうわけか今日またやってきてこのようなわけのわからないことを言い出した。

 私は鞄をもって立ち上がった。もちろん、帰るためだ。宇宙の小石はいつまで考えていても宇宙の小石でしかない。ならばそれはなかったことにしてしまうべきなのだ。

「お帰りになるのですか? 総理」

 ミキオ先輩は突然、それまでと話し方を変えてきた。

「だから、私は総理になるなんて言ってませんから」

「しかし、全会一致で可決してしまったのですよ」

「そのですます調やめてください、先輩のくせに。第一、どこの「全会」なんですか?」

「あなたの目の前にいる、たった一人のこの国民にして役人であり国会議員でもある五十嵐ミキオによる国民会議にて全会一致で支持を得てしまったのです」

「……私は反対します」

「総理は票数としてカウントできません」

「え、なんですかその身勝手なルール」

「誰か国民を増やすならべつですが」

 国家も認めていないのに、国民を増やすわけがない。そんなことをしたら国家だと認めたようなものではないか。ええいよろしい。こういうときは静かに無視するにかぎる。勝手にすればいいのだ。何が国家だ。私が国家なら国民をまるごと追い出して一人になる。

 私はミキオ先輩を無視して歩き出した。すると彼はすかさず私の鞄を横からそっと奪った。

「ちょ、ちょっと、返してください」

「ご自宅までお持ちします」

「困ります。自分で持てますから」

 すぐにミキオ先輩は鞄を返してくれた。

「ご自分でお持ちになるとは素晴らしい。公務でもないことに役人を使わないというわけですね? あなたを総理に選んで本当によかった」

「…何とでもとってください」

 私は駆け出した。一体何なのだ。昨日といい今日といい、これまでの平凡な日常を返してもらいたかった。どうしてこんな目に遭わなければいけないのだろう?

「忘れよう忘れよう」

 学校からだいぶ離れたところでようやく私は走るのをやめ、息を整えてから歩き出す。ミキオ先輩のことは放っておこう。しばらくは絡んでくるかもしれないが、きっと振られた経験がないから私のようなタイプが珍しくて面白がっているのだろう。いいわ、そのうち飽きる。それより怪物よ。あいつを何とかしなければ。

 電車に乗り、隣の駅の所無駅で降りたら、もう家は目の前だ。グリーンパレス所無のとなりにある小さな一軒家が私の家。私と母の二人でずっと暮らしてきた。先月までは。

 あの怪物が我が家に居座りさえしなければ、私はいまこんなにも眉間にしわを刻んでいないだろう。自分の存在を圧迫するものの存在は、恐怖だ。恐怖とは、ただ震え上がるようなものばかりではなく、そのもののことを考えただけで全身がむず痒くなり、己の生命の危機を感じるようなものを言うのだ。私は恐怖でこのところずっと体が痒い。

鍵を開け、音を立てないようにそっとドアノブを回して中に入る。

ぐぅおおおおおおおおおおお

ぐぅおおおおおおおおおおお

怪物のいびき。相変わらず寝ている。起きるのはいつも夕方になってから。あと三十分もすれば起きるだろう。その頃には私は塾へ行く。次の戦いは夜。いかにして安全を確保して眠るかが目下のテーマだ。私の部屋には鍵がない。怪物は数日前、勝手に私が眠っているところへ入ってきたことがあった。寝ぼけたふりをして顔を蹴飛ばしてやったらそっと出て行ったが、そうしなければ何をする気だったのかわかったものではない。いびきも困るが、こっちはもっと実質的な害となる。自分の身だけは守らなければ。

塾から帰ると、たいてい母と怪物は喧嘩をしている。怪物はすぐ母に手を上げる。最初の何度かは私はそれを止めに入ったが、そうすると私も容赦なく頬をぶたれた。ただ、何度かそうしているうちに、母がそれを望んでいないことに気付いた。そもそも母がこの怪物を追い払えばいい話なのだ。なのにそうしていないのは、結局彼女がこの怪物を愛しているということにほかならない。愛とか恋とか本当に気色の悪い代物だ。そんなものは要らない。

高校でも、恋人なんかを作ってる連中はみんなちょっと馬鹿げて見える。母もそうだ。恋愛が人を馬鹿にしてしまうのか、それとも馬鹿が恋愛をするのか。どっちでも構わない。いま私がこんなにも神経を尖らせているのは、そのひと様の恋愛が私に迷惑をかけているからなのだ。許しがたいことだ。親が好きになったというだけで、怪物が家の中にいるなんて。

怪物は大きな体をしている。怪物が寝ころぶと、六畳の和室の二畳分くらいが占領されてしまう。私は残りの四畳のうち二畳分のテーブルの下をくぐって移動し、自室へ逃げ込んだ。それから塾の支度をすると、台所の冷蔵庫から食べられそうなものを物色して鞄に詰め、玄関へ。

靴を履きかけたところで「むぐぅあああああああああ」と声がした。

「おかえりぃいいいい、かなちゃん」

 私は答えず靴を履き続ける。こんなときに限って、うまくかかとが収まってくれない。

「おかえりって言ってんだろうがくそがき」

 急がなければ、次はモノが飛んでくる。

 ところが、今日は違った。怪物は寝起きとも思えぬ速度で移動して玄関先までやってきたのだった。黒い影がぬううっと伸び、私の視界を暗くする。

 髪をつかまれた。

 次の瞬間、私の顔は壁にぶつけられていた。

「せっかくいまかなちゃんと仲良くしてる夢見てたのになぁ。がっかりさせんなよぉ」

 次にとった行動は本当に思いつきだった。私は靴べらで怪物の鼻先をガツンと突いた。思いがけず効果があり、怪物はうぐっと呻いてほんのわずかに後退した。

 私はその隙に家を飛び出した。

 そこへ──ミキオ先輩が立っていた。直立不動というのか。私を見ると、にっこりとほほ笑み、お辞儀をする。

怪物がドアを開けて「待てこら!」と叫び追いかけてきた。私はとっさにミキオ先輩の背後に身を隠していた。震えが止まらなかった。

「助けてください」

「我が国は軍隊を持っておりませんが」

「……え?」

「しかし、いいでしょう。一国の総理をお守りするのに武器は必要ありませんから」

 ミキオ先輩はそう言うと、私を抱き上げて駆け出した。とても人を抱えているとは思えないスピードだった。もちろん怪物は追ってはこられなかった。何事か叫んだだけだった。

 ミキオ先輩は表通りでタクシーをつかまえて乗り込むと言った。

「総理、ご無事で何より。次のご予定は塾ですか?」

 私はなぜだか泣きながら静かにうなずいていた。納得いかない。こんな展開は何一つ納得がいかないけれど、私はどうやらミキオ先輩の総理大臣に就任したようだ。

 私はタクシーのシートにもたれかかりながら、これからのことを考えた。今夜私はまたあの家に帰るのだろうか? そして、無事で夜を明かすことができるのだろうか? 

「ご安心ください。総理。総理には私がついています」

 ミキオ先輩はそう言ってポケットから缶コーヒーを取り出した。その缶のぬくもりが、いつの間にか冷え切ってしまっていた私の掌をゆっくりと温めていった。

こうして、私の「総理大臣」としての日々がスタートした。

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