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le conte 聖夜の密室劇 第一夜「ふつうな二人」

「所無駅まで」
 白柳は素っ気ない口調で運転手に告げた。
はい、と短く返事をして、運転手はゆっくりタクシーを走らせた。トヨタのクラウンは滑らかな走りで雪の夜道を進む。
 車中には、雪よりも冷たい空気が流れていた。冷たいばかりでなく、白柳がときどき吐き出す溜息が、重みをプラスする。
「何回溜息ついてるのよ」
「十三回」
「……数えてたの?」
「自分の出した溜息だからね。数えるよね、ふつう」
 出た。「ふつう」。この言葉が、いつも二人の喧嘩のもとだった。そして、最終的に別れようと決めたのも、この口癖が原因だった。
 ──え、だって不倫は不倫のままで現状維持でしょ、ふつう。
 結婚してほしかったわけではない。でも、些細ないさかいから自分たちの関係を不毛だと罵ったら、そんなふうに言われて、一気に冷めてしまった。
私は所無駅徒歩三分のマンションに住んでいる。白柳がそこに立ち寄るのがここ数年の日課だった。私と白柳はかれこれ五年ほどの付き合いになる。その間に私は白柳のいいところもいやなところも全部見てきた。そして、今夜一つの結論を出した。
「白柳クン、引っ越さないの? 川越って遠くない?」
 白柳の家は川越にある。会社のある九段下まではけっこう距離がある。マイホームじゃなくて賃貸だから、そのうち家を買うのかと思っていたが、どうも貯金はないようだ。
白柳は私の問いには答えず、また溜息をついた。
視線は車をよけてゆく雪に向けられている。
「最悪だよ。明日はイヴ・サン=ローランだって言うのに」
「何よイヴ・サン=ローランって。クリスマス・イヴでしょ。そういうところが嫌なのよ」
「そういうところって何だよ」
「『ラミレス行こうよ』とか、『コンビナート寄ってから帰ろう』とか。要らないの。そういうオヤジギャグとも言えない小ネタは。しかも、イヴ・サン=ローランとかぎりぎり分かるけど、何だったか咄嗟に浮かばないしすごくモヤモヤするし、何も楽しくないのよね」
「それは君の問題だろ」
「そう。私の問題。だから別れるの。終わりにするの」
「勝手だなぁ。だいたい、終わるという言い方はどうかな。それは君が使いたい言葉だよね」
白柳は乾いた笑い声をあげる。
「そりゃあ君は新しい恋が始まるわけだし、そういう意味で言えば終わりだよね。尾張名古屋は城で持つってね」
「……そういうところよ。嫌いなの」
「付き合い出す前はクスクス笑ってたよ? 女の子がちょっと気がある男子によくやる感じのクスクス笑い。べつにお笑い芸人じゃないんだから、腹の底から笑えること言わなくてもいいんじゃないの? クスクスって笑えればさぁ。あれだよ、問題は君がもう俺のギャグには笑いたくなくなったってことなんだよ。そう。飽きたわけだ。アーキテクチャー」
「そういうの、最後に言わずにはいられないわけ? 病気よ病気。まあでも、いいわ。そうね。飽きたって言葉は少し違うけど、疲れたのよ」
「ほらね」
「でも勘違いしないで。オヤジギャグに付き合うのに疲れたわけじゃない」
「ほかに何があるんだ?」
 そんな凄んで言うくらい他に思い浮かばないのだろうか? この男はやっぱりおかしい。
「あなたには家庭がある。私にはない。その状態に疲れたの」
「……でも君さ、むかし言ってたじゃん。あったかい家庭にあこがれるって。俺、あったかい家庭持ってるじゃん。だから俺に憧れた。何も問題ないよね?」
「え、馬鹿なの? それ私の家庭じゃないし」
「仮に君の家庭なら、という仮定の話でもする?」
「もう本当に最後くらいやめてよ、そういうの……」
 私が溜息をつくと、白柳はそれにかぶせるように特大の溜息をついた。まるで悪いのはこっちだと言わんばかりの態度だった。
「君は勝手だよ」
「勝手はあなたでしょ? 家庭のある身で私に手を出して……」
「口説かれたんだからそこは同罪だろう」
「何それ……」
「俺は家庭あることを隠してたわけじゃないんだし。まあそのことはいいんだけど、そうじゃなくて、君が勝手だって言うのは、あれだ、主義をころころ変えるところだよ」
「私がいつ主義をころころ変えたっていうの?」
「君はデザイナーズマンションに住んでるよな? 所無駅から徒歩三分。小さすぎるうえに電気代ばかり食う冷蔵庫がついてるだけなのにデザイナーズマンションを謳うのがそもそも詐欺物件だと思うけど、問題はその冷蔵庫だ。製氷機があるけど、氷ができるのが二日後って遅すぎるだろ。夏場にそのことで君と揉めたよな? 俺がウィスキーをロックで飲もうとしたら氷ができてなくて、ひどいなって言ったら『オプションの冷蔵庫だししょうがない』って言った。そうだろ?」
「言ったけど?」
「オプションは、しょうがないって」
「言いましたけど?」
「俺が既婚者で家庭があるというオプションは、最初のうち『しょうがない』って思ってたわけでしょ? それが変わった。勝手だよ」
「何言ってるの? 最初からしょうがないなんて思ってないから!」
「思ってないのになんで付き合ったの?」
「それは……」
 次の言葉に詰まった。それを口にすれば、自分が負けな気がしたのだ。
「いろいろ考えたよ、俺も。あったかい家庭って言うけどさ。最近、うちの子が言うわけ。『私もお姉さんが欲しかった』って。そこで提案なんだ。愛人関係にピリオドを打つのはそれはそれとして、うちに養子に入らないか?」
「馬鹿なの? 本当に馬鹿なの? 私、佐々木君と付き合うことにしたの。知ってるよね?」
 佐々木は私の部下だった。ずっと口説かれていたけれど、白柳への気持ちがあるうちは誘いを断り続けてきた。でも、白柳との不毛な関係に疲れるうち、佐々木の熱烈なアピールにほだされていって気持ちが傾いたのだ。
「あんな奴の何がいいんだ? あいつはミュールとモスコミュールの区別もつかないんだぞ?」
「そんなわけないでしょ」
「まあ、どっちも飲み物だけどな」
「ミュールは飲み物じゃないよ。ねえ、私に突っ込ませないで。私、いやなの。あなたといると、突っ込む癖がついている自分がとても嫌なの」
「君のツッコミは創意工夫はないけどタイミングが適切で好きだ」
「そんな褒めは要らないから」
「君はなんでもっとふつうの関係でいられないんだ? ずっとうまくやってきたじゃないか」
「どこがふつうだったの? 不倫でしょ? 浮気でしょ? 全然ふつうじゃない!」
「オプションだろ? わかっていたオプションだ」
「わかったわ。だったら、そのオプションが嫌になったの。前から嫌だったけど、やっぱり我慢できなくなったの」
「あの氷ひとつ満足に作れないポンコツ冷蔵庫には我慢してるのに?」
「あの冷蔵庫のほうがマシ」
「ふつう、三十代の健康な男つかまえて冷蔵庫のほうがマシって言うかな? 言います? 運転手さん?」
 運転手は突然話しかけて明らかに困っていた。
「そうですねぇ、言わないかな……あんまり」
「ほら運転手さんも言わないって言ってる」
「運転手さん巻き込まないでよ」
「じゃあさ、佐々木とは俺が付き合うから、君は冷蔵庫と付き合えよ」
「は? ……ちょっと意味がわからないんですけど」
 白柳の発言にいちいち意味を求めていたらきりがない。けれど今のは流石に意味不明すぎた。
「だって冷蔵庫のほうが俺よりマシなんだろ?」
「佐々木君のほうがさらにいいわよ」
「え、じゃあなに、俺は冷蔵庫より佐々木より下なわけ? 食物連鎖でいうと、佐々木、冷蔵庫、俺ってこと? 俺は冷蔵庫に捕食されるのか?」
「なんで食物連鎖が出てくるのよ……」
「出てくるだろう、ふつう」
「あなたのふつうはふつうじゃないんだって。あなたのそういうところが疲れるから嫌だって言ってるの」
「いや、さっきはそうは言わなかったぞ。君は俺のこういうところもいやだけれど、疲れたのは不倫関係のほうだって言った。ところが、さっきも言ったように、不倫関係はオプションであり、最初から『しょうがない』とすら思っていなかった、と。つまり、だ。俺たちの関係、『別れる』ってのは当たらないんじゃないかな?」
「『当たらない』って何よ? なんで当たるか当たらないかあなたが決めてるの?」
「だって、これは『別れ』には当たらないでしょ、どう考えても、ふつう」
 また「ふつう」。この男の「ふつう」に付き合っていると頭が痛くなる。
 でも、さすがの白柳も今夜がこれまでと違うことは理解していたようだ。私のうんざり顔で、いつもの調子を引っ込めた。
「わかったよ。養子縁組の件は諦めるし、佐々木と君が付き合うのも仕方ない。そして、俺と君はもう恋人でも何でもない」
「申し訳ないけど」
 やっとわかってくれたのか。長かった。でも、仕方ないのだ。新しい一歩を踏み出さなくては。
「いや、いいんだ。いつかこういう日がくるとは思ってたから」
 わずかに白柳は涙ぐんでいるようだった。
不意に、去年のクリスマスのことが脳裏をよぎる。去年は一人で過ごすはずだった。それが、突然トナカイの恰好をして白柳が現れたのだった。「サンタクロースがブラック企業だから逃げてきた」と言いながら。
 その時のことを思い出すと、なぜか心が温かくなる。
「楽しいこともいっぱいあったよ。だから、ありがとう」
 白柳は泣いていた。
 その時、タクシーが所無駅に停まった。白柳の家がある川越駅はここからさらに三十分ほど行かなければならない。だから降りるのは私だけ。
「じゃあ、元気でね」
 うん、と白柳は頷いた。その神妙な姿に、私は母性本能をくすぐられさえした。やっぱりまだ別れたくない、と一瞬そんな馬鹿げた考えすら浮かんだ。
 だが、次の瞬間、そんな自分の甘さを呪うことになった。
 なぜか、支払いを済ませて、白柳まで一緒に下りたからだ。
「……なんで一緒に降りてるの?」
「お腹が空いたから」
「いやいや……自分の家で食べなよ。私たち、別れたんだよ?」
「そういうオプション」
 そう言いながら白柳は寒そうに首をすくめた。
「そういうオプション?」
「はじめから別れてる男女というオプション」
「意味がわかんない。別れてる男女がどうして今ここに一緒にいるわけ?」
「その不思議を、今夜一緒に解き明かそう」
「帰れ!」
「だから帰ろうって」
「あんたの家じゃないでしょ!」
「俺の家じゃないよ。でも食物連鎖の下位だから。冷蔵庫に食べられに行かないと」
 へらへら笑ってそう言いながら、白柳は歩き出した。
ああダメだ。またこの男のペースに巻き込まれてる。
「死ねばいいのに」
 いつの間にか、頬からは涙が流れていた。私は、自分でも思いがけないことに、白柳の背中に抱きついていた。
 雪が、頬の涙を凍らすまで、私たちはずっとこうしていた。
 やがて、白柳がぼそりと呟いた。
「これだけ寒い夜なら、あの冷蔵庫も少しは冷えてるのかな?」
 私は、笑った。
 それから、馬鹿ね、と弱く突っ込んだ。
 ふつうの聖夜が今年もくる。たぶん明日は白柳は一緒じゃない。
 だから、今夜が、二人の聖夜。そう、この五年のおよそがそうだったように。また今年も、ふつうの、聖夜がやってきた。
 それが死ぬほどいやでもあり、それが死ぬほどうれしくもある自分が悲しかった。
 白柳が振り向かずに言った。
「あ、途中でコンビナート寄る? ファミリーマンモスが新しくできてたよね?」
 ほんと、きらい。私は白柳の腕に顔をくっつけて歩き出した。

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