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スガシカオ『労働なんかしないで光合成だけで生きたい』はスガ史上最大級の拡散力をもった「ドラッグ」だ。(後半)

(前半は一つ前の記事にあります)

05「おれだってギターを抱えて田舎から上京したかった」
 くるりの「東京」に限らず、ロックバンドは都会のアウトサイダーであってほしいというのが、何となくの無意識に根差しているなんてことはないだろうか。ジョン・レノンはリヴァプール生まれだし、ギャラガー兄弟はマンチェスターの生まれだ。やっぱりロックたるもの、都会の洗練に対して「クソったれが」と悪態をついていてこそなんぼというイメージはある。恐らくこのイメージは21世紀以降の邦楽リスナーの人たちにはない感覚かも知れないと思う。ロックンロールに染みついていた泥臭さは、いつの間にかどこかに置き忘れられてしまった感が否めない。
 だからだろうか。このタイトルには昨今のいわゆる邦楽ロックからは嗅ぎ取れない「ロックンロールへの憧れ」の懐かしさが漂ってくるような気がした。
 では実際どういう曲なのかというと、東京下町で生まれたスガシカオが、田舎から上京するミュージシャン志望の自分を妄想しつつ自分自身を語る妄想自伝ソングとでもいおうか。自らの血と骨について、それを妄想という独特のツールを用いて語るところにスガ節を感じる。「バイト先の店長殴って血まみれの指でギター弾いたり」ってそんなロック歌手がさすがにいるかどうかはともかく、そこに妄想されるのは、ある種、一時代ロックンローラーに求められた偶像そのものでもある。「東京の馬鹿野郎この野郎」。ヒモになって資本主義さえ敵に回しながら、世界を睨みつけてくれるロックンローラー。だが、スガシカオはそういう出自の人間ではない。
「渋谷区初期衝動2丁目3の2のマンション」という歌詞からは、まるで背中に刻まれたタトゥーをまざまざと見せつけられたような気がする。東京の排気ガスを吸って得た声で歌う「不良債権」としての自分。この妄想の合間から流れる自叙伝は、東京の街並みにそのまま溶け込みそうだ。地酒みたいなものが音楽にもあるなら、スガシカオの音楽は、東京渋谷の「地酒」なのだ。その土地の味が沁み込んでいるし、土地と切り離すこともできない。この曲を聴いているあいだ、自分と故郷のことを考えた。故郷のことを考えているのに、同時に東京に生まれた青年として生きてもいる。風景は違えど、そこには好むと好まざるとにかかわらず「刻まれてしまったタトゥー」がある。日本は東京と地方でできている。東京出身のスガシカオから届けられた妄想まじりの自叙伝は、素直に地方出身者と東京出身者の垣根を飛び越えて胸に迫ってくる。

06「ドキュメント2019 feat Mummy-D」
 前の曲「おれだって~」の歌詞の流れが、じつはこの楽曲への伏線にもなっている。
 ドキュメントシリーズは、スガがデビュー当時からアルバムの中間に入れてきたウエハース的な連作なのだが、これはまた最高にかっこいいウエハースがあったものだ。もうこれシングルカットしてくれと頼みたくなるくらいMummy-Dのラップも、ハマ・オカモトのベースも効いている。自身のかっこ悪さもかっこ良さもすべて受け止めて突っ走る現在のスガシカオだからこそ歌えるアッパーチューンと言えるだろう。
 このかっこよさは、必然でもある。というのも、このアルバムは、言ってみれば「スガシカオ初のエッセイ集」とでもいうべき内容になっている。そのなかでドキュメントシリーズの役割が、これまでのアルバムのような単なるウエハースではなくなるのは、当然ではないか。むしろ、六曲目に名刺代わりのようにこの楽曲が差し挟まれることによって、このアルバムの輪郭はいっそうくっきりとしてくる。
 ちなみに、Mummy-Dとの共演は、「はじまりの日」「ドキュメント2010〜Singer VS. Rapper〜」以来三度目。Mummy-Dの粘っこいラップは、スガ楽曲との相性がとてもいいように思う。なんでだか頭の中には「幽遊白書」の戸愚呂兄弟が浮かんできたのは困ったものだ。スガシカオが戸愚呂弟でMummy-Dが戸愚呂兄なのかな。ちょっと自分でもわかりませんが。

07「スターマイン」
 毎年毎年この国では飽きもせず花火大会がある。とくに夏は、そこかしこで花火が上がる。そのたびに、また飽きもせず腰を上げる自分もいる。何発も連射される花火を見ながら何を考えているかというと、大したことは考えていないのだが、その爆ぜる音が、己の心臓の音と重なり、爆音が自分の身体を通過すると、何かが一つ区切りがつくような、何かがまだ終わっていないと教えられているような、そんな気持ちになったりする。
 そして、ありもしないある瞬間が、同時にそこにはいくつも浮かんでいる。人はたった一つの人生を生きている。けれど小さな瞬間を切り取ると、まったくべつの人生が無数に一人の人間の体内に押し込められていたりする。花火は、そんなことを思い出させてくれる。
「スターマイン」という曲は、そんな瞬間がもつ偉大な可能性を信じてみたくなる楽曲だ。
「きっとこれでフィナーレだよって君が言うたび花火はまた上がるんだ」という歌詞に、ただ花火が一つ上がるだけではなくて、そこにもう一つべつの人生が生まれるような、奇跡の可能性さえ願いたくなる何とも言えない匂いを感じる。「願いと不安」。そして、流れる時間。流れる人生。でも、花火を見上げるとき、人々は止まった時間を切り取りでもするように、夜空に浮かんだ花火を見上げ、目に焼き付けようとする。その崇高さが、そのまま楽曲になっているような気がした。「花火」を前にしたら、老若男女なんてどうでもよく、誰の心も似たりよったりなんではないだろうか。だから、日本語で歌詞を書くときに、「最大公約数」を思い浮かべれば、花火はある種の必然ではある。けれど、ここにある独特の一瞬の切り取り方は、唯一無二のものなのではないか。そこにはっきりとスガ印が刻印されているのがわかる気がした。

08「黄昏ギター」
 一聴して、グッと大人サウンドな空気が流れているな、と思ってあれこれネットを探っていたら、kokuaのチームが再結集して作られたとあってああなるほどな、と思った。NHKの「プロフェッショナルの流儀」の主題歌制作のために集まった超プロ集団。そのkokuaによるアルバムはここ数年のヘビロテの一枚になっている。音楽的には「砂時計」に近い感じを受けた。
 非常に落ち着いて聴くことのできるサウンドだ。このきわめて統制のとれた音使いだからこそ、そこでスガシカオが何を歌うのかが重要になってくる。つまり、歌詞が、スガシカオがすべてアレンジをする楽曲以上に特別な意味をもってくるのだ。
 しかし、ここでスガシカオは男女の感情の機微を歌ったりはしなかった。そこに描かれているのは、ギターを借りたまま仲たがいしそれきりになった友との記憶だ。些細なすれ違いなのか、音楽的な価値観の違いなのかはわからない。でもとにかく、二人の現在は遠く隔たってしまい、後戻りのできない深い河が流れている。そんな友を想いながら、友の好きだった歌を歌う。
 手元には友に借りたままのギター。音楽にしがみついて生きる者なら、きっと似た経験を一度や二度はしているだろう。音楽にかぎらず、何かの道を進めば、その道中で出会った同志は、何かを預けて途中下車してしまう。好きで突き進む道であっても、預けられた側は、独特の寂しさを背負う。ふと、自分は過去に何かを預けられたことがあったのだろうか、と考えた。高校時代に文芸誌をやっていた。大学時代にも。あの時一緒に作家を目指した仲間がいた。「スターマイン」の花火のように、そういう記憶はいつまでも残り続けたりするものなのかもしれない。

09「マッシュポテト&ハッシュポテト」
 21世紀の最初の数年くらいまで、スガシカオといったらライヴは当然のようにShikao & The Family Sugarだったし、アルバム制作にも彼らはつねにがっつり参加していた。それが、たしか『FUNKAHOLIC』の前で活動を一区切りさせたのだ。たしかうろ覚えな理由として、バンドとしてある種完成してしまって、こういう音楽をやるとこうなるという予想がつくようになってきた、みたいなことだったような気がする。デビュー以来ずっとやってきたバックバンドを解体するというのは、大きな決断だっただろう。
 しかし、そのShikao & The Family Sugarが十年以上の歳月を経て再結集された。その楽曲はといえば、いやはやまったく息がぴったり合っている。かつてライブアルバムをむさぼるように聴いていた自分には、もうそのサウンドの懐かしい手触りだけで感動ものである。
 でもそれは初めて聴く人には関係ないので脇に置いておくとして、この楽曲の良さだけに触れると、まず曲調。これはそれこそShikao & The Family Sugarの名前の由来にもなっているスライ&ザ・ファミリーストーンを彷彿とさせるようなど真ん中のファンクナンバー。そして、歌詞は「月とナイフ」や「ドキドキしちゃう」の頃からスガシカオが得意としてきた「こんなに想ってる僕をよそに君は誰かに抱かれてる」系の歌だ。スガシカオのサディスティックな眼差しと、その奥にひそむ自己嫌悪と相手への一筋の優しい眼差し。こうしたものがハッシュポテトよろしくじつにカリっと揚げられている。
「どうか君とあいつの未来が不幸になれと願うそんな僕の亡霊が祝福で消えますように」という最後のフレーズで、ネット上に蔓延するストーカーの多くが成仏されそうな気さえする。憎しみの奥に隠しきれない相手への慈しみが、悲しい。二十年前なら、スガシカオはこの曲をこんなファンキー調では歌わなかったかもしれない。そこにこそ、現在のスガシカオの極めた「軽み」があると言えるだろう。

10「深夜、国道沿いにて」
 どこか、イギリスのレクイエムを思わせるようなトランペットで幕を開けるこの楽曲は、魂に眠れとは言わず、己の血を騒がせろと命じるかのようなスガシカオ的レクイエムといえるだろうか。
 国道沿いのラーメン屋のラーメンの味についてあれこれ考えだしながら、やがて少年時代によく足を運んだラーメン屋へと記憶が向かう。店のおばさんやそこを一緒に訪れた家族との思い出。こうしたノスタルジーの感触は、なぜか自分にはミスチルの「あんまり覚えてないや」という楽曲を思い出させた。些細な日常から、家族との思い出に遡ったりする手つきが似ている気がしたのかも知れない。
 だが、スガシカオの独自性は、やはりそうした記憶に死の匂いが付着していることだ。それも、この死の匂いは消臭スプレーを1缶まるごと使っても消えそうにない。
 人の死は、人生に影を落とす。しかし、時が経っても、その人たちの生きていた時間が、自分の身体のなかにいつまでも残っていたりする。どんな悲惨な死に方であっても、そんな死に汚されないくらい、やっぱり生の時間はきらきらと光を放っているのだ。
 そして、そんなとき、死んだという現実とかよりも、そういったきらきらした感覚のほうが本物なんじゃないか、と思う。ほんのちょっと手を伸ばせば、その世界では今もきらきらした時間があって、そこでは何も失われずにあの人が今も人のいい笑顔を向けてくれているのではないか。
 人間はたった一人で生まれ、たった一人で死んでいくのだが、その身体のなかには無数の人の人生が通過する。通過するどころか、ごりごりした汚れや、きらきらした輝きを残していく。そのなかに無限の時間があって、たった一つの小さな人生のなかに、無数の生がうごめいているのだ。とても簡単には「鎮魂」なんかしてくれそうにない死者たちの生が。
 そういった死者たちを、鎮めたり、眠らせたりしないで共に生きようとする、これはスガシカオ流の鎮魂歌である。そして、やっぱりこれは強烈に一人称の、自叙伝のフィナーレなのだ。
 ついでながら、国道沿いがテーマということで、自分は「コンビニ」という曲を思い出した。国道沿いのコンビニの閉店というありふれた日常から、そのコンビニにまつわる個人的記憶へとさかのぼる歌。スガシカオは場所と記憶を切り離さないし、記憶と自分を切り離しもしない。それこそがスガシカオというとてつもないドラッグを創り上げているのだ。

 といったように、全曲振り返ってみると、『労働なんかしないで光合成だけで生きたい』が、「スガシカオそのもの」とでも呼びたくなるようなアルバムだなあとわかる。これは最高傑作だとかそういうことじゃない。なるほど、本当にありのままの、今のスガシカオそのままなのだ。
そして、「そのまま」をそのまま見せることが、いかに難しいか。ふつう、「そのまま」を見せようとしてもこんなカオスな雰囲気にはならない。それは、「ありのままのスガシカオ」というものに付随する匂いを、どれ一つスガシカオが調整したり、除去したりしないで差し出したからなのだ。
 たとえば、自分の中に眠るべつの人間の人生というのは、「自伝的」であろうとすれば本来なら削られる部分だ。しかし、スガシカオはそういったものすら自分の血であり骨であると認めてしまう。東京、渋谷、いつかのラーメン屋のおばちゃん、友の残したギター、そういった残骸のようなものたちで、現在の自分が構成されていることから目を背けたりしない。
 このアルバムを通して聴いた人は、「じぶん」の意味が変わっているかも知れない。それは、我々が少しずつ「光合成向き」の存在になっているということかもしれない。「じぶん」を拡張して、さまざまな要素と切り離せなくなると、それはたしかに植物的な在り方にもなってきたりする。
 三年前、「ダ・ヴィンチ」さんの企画で、スガシカオ特集で「黄金の月」をテーマにした短篇「9月には残らない」を書かせてもらった。その後、その時の心境をnoteに綴った。(https://note.mu/millionmaro/n/ne6da3b276878を参照していただきたい)あの記事で、自分は今後もスガシカオ楽曲に出逢うことが「事件」でありますように、と締めくくった。たしかに本作は「事件」だった。しかし、まったく予想しないかたちの「事件」だった。血生臭さも、セックスの匂いもない、けれどたしかな等身大の手ごたえを残した「無形の事件」が届けられたのだ。
 ぜひ、このアルバムを聴き、最後の一曲を聴き終えた後で、リピートで一曲目に戻り「ドンドン」という低い打ち込みのうねりに耳をすませてほしい。それを聴くあなたは、もうすでに三十分ほどまえのあなたではなくなっているであろう。それはもうスガシカオをキメて「トリップ」した後の、まったく別世界のあなたなのだ。

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