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スガシカオ『Sugarless Ⅲ』に横たわるむき出しのエグさについて

一体何事か、というタイトルでお届けする今夜の記事。
そのタイトルどおりスガシカオ(以下敬称略)のニューアルバム『Sugarless Ⅲ』について書いていこうと思う。

前作アルバムについての記事が前編後編に分けた長いものだった反省を踏まえて今回はコンパクトにまとめてみたい。

楽曲、テイクへのこだわりといった部分はレコード誌や音楽批評家に任せ、私は私なりの『Sugarless』シリーズの着目点に言及していく。

デビュー当初、スガシカオのアルバムで求めていたのは、私の場合、ファンキーなコード進行、うねるベースライン、アコギのざらついたカッティング、シャウトもビブラートも見事にハマるハスキーボイス、そして何よりディープで艶のある歌詞の世界であった。

少なくとも3rdアルバム『Sweet』までは、その解釈で間違いなかった。だが4thアルバムからスガはファンクに限らず音楽世界を広げてゆく。アルバム未収録曲を中心に構成された『Sugarless』の「Ⅰ」が作られたのは、そんな実験的な4thアルバムのあとだった。

スガはどこかの雑誌で、当時4thアルバムを失敗と断じていたことがあった。現在の見解はわからないが、彼や彼を取り巻く環境が結果的にアルバムコンセプトをまとめきれなかった、というのがその理由として挙げられていたと記憶している。そしてそれからほどなく「ちょっとあいつに休みをやれ」との事務所判断で休暇をとらされたさなかに「八月のセレナーデ」のメロディが降ってきてしまい、結果的にスガは猛烈にやる気を取り戻してすごい勢いで「夜空ノムコウ」のセルフカバーなどを次々精力的にこなして『Sugarless』を完成させてしまった。

本来なら「アルバム未収録曲集」という落穂拾い的なポジションになるはずのアルバムが、スガのエネルギーによってその枠に収まりきらないものに変わり、オリコンチャートでも初の1位を記録した。

アコースティックっぽい手ごたえの作品が多く収まってもいた結果、私はそのアルバムに、ふだんのスガアルバムを聴くのとはべつの姿勢で臨むことになった。要するに、それまでよりも歌詞に特化してアルバムを聴きこんだ。

実際、それくらい『Sugarless』に収められた楽曲の数々はそれまで以上に突出して、いびつな詞の世界がありのままに晒されていた。日頃はファンクに寄り添うようにある詞が、むき出しのまま置かれていた。

そんなわけで、「Ⅱ」が出た時もやはり私は詞に注視して聞いていたように思う。いやべつに注視しようとせずとも、楽曲全体がふだんのドファンクの重厚さを纏わぬぶん、くっきり耳に入り込んでしまうのだ。だがしかし、それでも「Ⅰ」と「Ⅱ」には大きな違いがある。その違いが何なのか、これまではっきり考えてこなかった。

そして「Ⅲ」を先週から聴き続けてみて、はたと、じつはこの15年間ほどスガシカオの変化に気づいていたことを改めて言葉にしてみたくなった。その変化がいつ頃始まったのか、についても。これは初期からのファンであればあるほど、無視できない変化であろう。

変化。それは──ある時からスガが、ときに意図的に詞の奥行や行間を読ませるスタイルを拒絶するようになったことだ。

たとえばSMAPに提供した「夜空ノムコウ」は「あれから僕たちは何かを信じてこれたかな」と始まる。「あれから」とはいつからなのか。「僕たち」に何があったのか、そんなことは何も語らずに物語は始まり、そして終わる。こうしたスガシカオの独特のやり口を、彼はある時期から明確にみずから封印していった。

その変化を最初に感じたのは2006年にKAT-TUNに提供した「Real Face」だった。そう、思い返せば『Sugarless Ⅱ』でラストにセルフカバーが収録されたのもこの曲だった。今となれば「Ⅲ」への伏線とさえ思えてしまうほどだ。

「Real Face」の歌詞を最初に目にしたときは唖然としたものだった。とてもスガシカオが書いた詞とは思えなかったからだ。選ばれた言葉はどれも直球でそれ以上深読みする必要のない、表層で完結する語ばかりだった。

しょうじき、最初は「これスガシカオに頼まなくてもよかったんじゃ……」なんて思ったくらいだ。だが、ひっくり返ったまま何度か詞を見返すうちに考えが変わった。これはまぎれもなく、日ごろ「舌のみじかい女がキスしてきてますますゆううつになった」とうつむくスガが、今を生きる若者と等身大で向き合おうと試行錯誤した末に辿り着き、苦労して奥行きも行間も取っ払った世界だ、と。

それは21世紀的平板な世界の幕開けを、スガシカオが独特の嗅覚で嗅ぎ取り、そこへ自らをシフトさせた瞬間だったのではないかという気がする。

スガシカオはその後もPerfumeや初音ミクにもいち早く反応し、どんどん遠近のない世界へと突入していく時代の息吹みたいなものを感じ取っていった。

リスナーはどうしても自分の輝いていた時代で趣味や興味を完結させてゆく。そしてその時代の音楽や芸術作品を最高位に位置付けて、その後のものをそれ以前と比べてしまいがちになる。

だが、アーティストのほうは時代と添い寝しながら自らの化学反応を楽しんでいく。「あの頃のあれがよかった」と言う人はいつの時代もいるが「あの頃のあれ」はやれと言われればいつでもできるのだ。ただそれは新味がない。であれば、いつまでも「あの頃のあれをやってほしい」という人たちとばかり向き合ってもいられない。

スガはKAT-TUNからのデビュー曲オファーという形で、期せずしてその扉をこじ開けることになったのではないだろうか。

当時のインタビューでスガは「Real Face」という歌詞を完成させるために周囲の人に詞をみせては意見を聞き、といった試行錯誤があったことを明かしていた。

「ライト」な世界へいくのは、人が考えるほど簡単なものではない。小説家をひとりつかまえて、「ラノベっぽく書いてよ」と言っても、ラノベの文法は一朝一夕で身につけられるものではないように、詞から奥行きも行間もすべてなくすというのは、かなり困難なことだ。

しかし時代は確実にそうした「平たい世界」へ進んでいた。象徴的なのは西野カナだろうか。「会いたくて会いたくて震える」世界へ進む世界。すべてを明確に言語化しなければ、誰もその言葉の「裏」なんて読んでくれない時代が、ドシンドシンと音を立ててやってきている気配を、スガはJ-POPの最前線にいてじかに感じていたのに違いない。

それはその「Real Face」作詞より前に、『Time』というアルバムが思ったほど売り上げが伸びなかったこととも関係しているかもしれない。私は今でもあの『Time』というアルバムがたまらなく好きで、再生回数はもしかしたらどのアルバムより多いんじゃないかと思うが、それでも世間からあのアルバムが「暗い」と感じられて終わったという感覚が、少なくとも当時のスガにはあったろう。だからこそ、「Real Face」を皮切りに、一気に「陽」のほうへとスガは舵をきる。

それまでのファンがそれを望んでいるかどうかなんて関係ない。だってそれまでのファンは、スガにとって渾身の出来であったはずの『Time』にそれまでほどの熱量での反応を見せなかったのだから。

20代の頃の私は、あの『Time』のチャート成績を思い出すにつけ自分のことのように悔しがり、「からっぽ」という歌を怒りとともに歌ったものだった。だがスガはそこに留まっているわけにはいかなかった。からりとした明るいアルバム『PARADE』でふたたび成功の足掛かりをつかむと、『FUNKAHOLiC』『FUNKASTiC』で「明るくかっこいいファンク」を創り出していく。

無論、楽曲自体をみれば、それまで同様の鮎川信夫や安倍公房の世界の延長にありそうな陰鬱でディープな奥行きありありのものは相変わらずある。

だが、それでもアルバム総体として聞く時に、リスナーが前向きに閉じられるように、という仕掛けが随所になされていた。いわば、「奥行きスイッチ」を、曲によって「意図的に切る」という術を会得したのではないか。

そして、これ以上ないほどライトで、裏をさぐりようもないあられもない詞であっても、そこにかえって浮世絵のように、平板であるがゆえに生まれる「べつの可能性」が、豊かに芽生えていった。

たとえば『SugarlessⅢ』に収められた「心の防弾チョッキ」という楽曲にこんなフレーズが出てくる。

「この痛みはなんだ?
どんだけ 君に依存してたんだろう…おれ」

さらには

「一体どんなやつなんだ 君の新しい彼って
携帯探ればよかった」

ここまで直球で、それ以外に何とも受け取りようのない赤裸々な感情の吐露。だが、裏を読ませずとも、どこまでも心の襞をさらけ出されてしまえば、それは結果的に「えぐい」曲になる。

読むべき行間があろうがなかろうが、人の心を、時代の心を、じっと観察し、抉りとろうとするスガシカオの眼差しがそこにある。そして、そのストレートであえて創り出された「平たい眼差し」が、時代とともにスガが創り上げてきたものであることを、このアルバムを通して改めて痛感した。

そしてストレートだからこそ、終盤近くに置かれた「ぼくの街に遊びにきてよ」の素直なフレーズの一つ一つがしぜんと耳に馴染む。『Sugarless Ⅲ』は、「Real face」に始まった(あえてそう断言するが)スガシカオの「平たい言葉の世界」への挑戦の、一つの集大成的なそれと言えるんではないだろうか。

また、「ハッピーストライク」における「思い出行きの電車は人身事故で遅れてる」というフレーズと「トワイライト★トワイライト」における「幸福行きのワインの色はぼくの血よりずっと赤くてとても飲めたもんじゃない」というフレーズからは、この二曲の世界がつながっていることがうかがえる。こうした遊びは、『Sweet』での「ふたりのかげ」と「夕立ち」に流れる人身事故のニュースのような、楽曲を超えて通底する〈物語〉を感じて嬉しくなるリスナーも多いことだろう。

いまコ口ナ禍で「ひさしぶりに90年代に聴いてたアーティストのベストアルバムでも買うか」みたいなかつてのファンもいるのかな、とか想像する。2006年頃のスガシカオの変化に違和感を覚えた人も、今になれば情報の渦に飲まれて誰よりも平板化している自分たちがいることに気付くだろう。昨日のこともいちいち覚えていられない自分たちが。

そんな時代を、スガシカオは遥か彼方から、たぶんずっと俯瞰して生きてきたのに違いない。アルバムを聴きながら、そんなことを考えた。そして、あたかも今の時代に生きる若者のひとりにでもなった気分でつぶやいてみるのだ。「エグい、エグいよ、スガさん」

このあられもないエグさを、一人でも多くの人に体験してもらいたい。

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