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スガシカオ『イノセント』がとてもイノセントでよかったという話

スガシカオ『イノセント』についてどう語るのがいいのだろう、と考えるうちにいつの間にか三月になってしまった。最近は、体験を即日言葉にするような文化が「ふつう」になっている。創作者側としては嬉しい。光栄だし、販促的にも助かる。

でも、一度の体験で得られる感動や興奮「にしか」本物がないわけでもない。最初の興奮は、香水でいえばトップノート。芸術体験にはミドルノートも、ラストノートもある。長い目でみて、体験直後の感想と全然ちがう気持ちを持つことも、ないわけではないのだ。

そんなことをあれこれ考えながら、百とか、二百とか? それくらい聴き込んでみて、そろそろ何か言えそうだな、という気にようやくなってきた。とはいえ、これは言葉を扱う職業の人間が、このアルバムをどう面白いと感じたか、という話にすぎない。それ以外の部分は、あなたの体験を信じたらいい。そもそも体験に他人の言葉は要らないのだ。

すごい曲「バニラ」がすごいのですごかったです

アルバム一曲目を飾るのは「バニラ」。まず歌詞について語る前に、やはりこの楽曲の構成に言及しないわけにはいかない。この楽曲の実験性は長いスガシカオ史の中でもトップクラスだ。デジタルビートから始まって歪んだギターサウンドが、まるでデジタルの縄に縛られて体をよじるみたいにうねる。それがサビに向けてロックテイストに変わり疾走する。
それが歌詞においても、ビートの抑制、呪縛からの解放、快楽、という感覚がそのままSM世界をストレートに表現したような言葉に落とし込まれている。

しかしこの楽曲のすごさは、簡単に一聴でわかるのに、すべてを言語化しきるにはかなりの時間がかかった。それというのも「かつてのスガシカオならここにどんな言葉を混ぜただろうか」というのを考えていたからだ。

以前の彼なら快楽的な歌詞に混ぜて「君の歪んだ昨日も一緒に溶けてしまうよ」と、SM世界の外にある憂鬱に目を向けたのではないか。そのような「ちょっと斜に構えた視線」を、少なくとも二十数年前の自分はスガシカオ的な世界と捉えていた。(と言いながら「イジメテミタイ」を聴き返すと、しっかりエロいだけだな、と思ったりもするのだが)

しかしこの歌詞にはそのように斜に構え、快楽のさなかに別の何かに思いを馳せる無粋な真似をする男は登場しない。快楽は快楽、ただそれだけ。奥行きはないが、それを「うすっぺらくなった」と捉えるか「平板化した世界への言葉」と捉えるかは大きな違いだ。そして、恐らくここが「イノセント」というアルバムの「純心」をひもとくポイントにもなるだろう。

「さよならサンセット」がとても名曲なので名曲でした

今回のアルバムをどう聞けばいいのかを端的に表していたのは、二曲目の「さよならサンセット」という楽曲なのではないか。歌詞は、仲の良かった友人が亡くなった後での集まりにおける感傷が描かれている。そういえば、じつは「ぬれた靴」にもあった(あれの「式」は結婚式の可能性もあるわけだが)。ただ、そこに描かれていたのは「周りの感覚と同化できぬ偽れない自我」だった。世界を斜に構え、冷めた態度で距離を置く主人公が、つかの間の「我々」に加えられる居心地の悪さ。そこにざらついたスガシカオ特有のデタッチメントな空気があった。

だが、この歌詞の主人公はそうではない。人の死に対する眼差しに薄暗い過去も、後悔もジレンマもなく、ただ純粋に「その人がいない未来を歩いていく自分たち」を思っている。「我々」の中にいる自分と他者との齟齬を「それぞれ」という形で括弧に入れた結果、ピュアな「誰にでも通じる本音」が遠近も裏表もなく提示されている。そう、平板化する世界を、拒絶しないで言葉を紡ぐ姿勢の先に辿り着いたのが『イノセント』なのではないか。

ちょっと脱線するけどもとに戻るので脱線です

ちょっと脱線する。今年、自分はこの記事をアップしている頃には44歳になっている。自分より二十、三十上の人たち(いわゆる親世代)を見ていると、歳を重ねるほど子どもっぽくなるなぁ、と感じるときがある。ひるがえって自分はどうなのかというと、やっぱり同じなのかも、と思う。

嫌なものは嫌、という単純なことを若いうちは拒絶できなかっただけで、歳月を重ねると、もう今さら我慢したくもないというところもあるし、逆に他者を助けたり、アドバイスをしたり、おせっかいを焼くといったことも躊躇わなくなる。

「こう思われるかもな」とか「こいつどうせ感謝などするまい」とか、そういうごちゃごちゃしたノイズをいちいち考えなくなるのだ。それは他人の現実で、自分の現実ではないから。

そのような純化は、諸刃の剣でもあろう。だが、どうあれそれがありのままの人間ということなんじゃないのかな、と思う。ときにそれが醜く見えようが、わがままに見えようが、いい人に見えようが、かわいらしく見えようが、どうあれそれが人間だということ。

と見せかけて脱線がもう少しだけ続きます

私事だが、家の人はここ十数年音楽をあまり聞かなくなった。つねに音のある状態が苦痛になったのだそうで。だから二十代の頃はいろんな音楽をシェアしていたが、今はそういうのが皆無になった。

しかし先日、キッチンで自分が『イノセント』を聴いていたら、「スガちゃんって昔から素直だよね。人が隠したい本音を隠さない」と言ってきた。もちろん彼女はアルバムタイトルも何も知らない。だが、その言葉を聞いて、自分はもしかしたら、誤解していたかも、と思った。歌詞上の変化にばかり囚われていたが、「本音を歌う」スタンスは揺らいでいない。スガシカオは昔からイノセントだった。ただ自身の内側や世界のノイズを、ときに括弧に入れることで、よりイノセントに「みえる」ようになったのかもしれない。

ファンクザウルス初めてなので初めてでした

この純粋さ、今の時代にはあり得ないほどの純度が、『イノセント』には全編においてさらけ出されている。それを、これまでやってきたファンクとは少しルーツが異なるであろう、「叩けばホコリばっかし(Short Mix)」「バカがFUNKでやってくる(Short Mix)」、「メルカリFUNK」(Short Mix)、「おれのせい」 等の「ファンクザウルス」名義の楽曲によるウエハース的な息抜きを挟んで、よりカジュアルに、さくさくと聴かせてくれる。

ここをどう受け取るか。自分は25年来のファンであり同じ人は多かろう。自分がベストに上げるのは『SMILE』『TIME』で、あのメランコリーさが今でもたまらない。あのヒリヒリする孤独感、疎外感、憂鬱気質こそがスガシカオだと考えるファンは一定層いる。そんなファンにとって、この純粋さ、気さくさ、ポジティブさをどう捉えるかは踏み絵にもなるかも。

体験においての正解はそのリスナーにある。だから、何が正解とか不正解という話ではない。「最近のスガシカオはシニカルじゃなくなっちゃったね」みたいな感想の人がいても、間違いではない。だが、それはある時代の空気に留まっていたいあなたの感性がそう判断しているだけかもしれない。

「東京ゼロメートル地帯」が素敵すぎて素敵でした


たとえば八曲目の『東京ゼロメートル地帯』。スガが歌い続けている東京下町シリーズなのだが、音楽自体も古いファンクのテイストで、町に対するノスタルジーな感覚が、感傷以上の切実な体感としてそこに提示される。生まれた町への違和感、退屈と窮屈、そうした腐臭に敏感だった時期をすぎて、そこに向き合うスガの目がある。

世界からの孤絶、隔たりを、「もはやそんなの当たり前だから括弧に入れていいだろ」という前向きさと、「世界って素敵だよね」と頭から信じる前向きさの違いを、どうか耳を澄まして聞いてみてほしい。

「覚醒」で覚醒したらきっと覚醒するでしょう

このスガシカオ流のポジティブさへのチェンジの意識の流れがいちばんダイナミックに読み取れるのが、「覚醒」という楽曲だろうか。途中のアコギがかっこよく、また初期スガのざらついたアコギサウンドも想起させる。だが、メランコリックなメロディに並べられた言葉の力強さが何より光っている。「さっきの未来が今だとするなら未来はまだけっこう変えられる」という、究極の刹那主義ゆえに生まれたポジティブ思考。メランコリーを分解して部品を継ぎ接ぎで組み立て直したら奇妙なオブジェが生まれた。それがスガシカオの実験的な「ポジティブ」であり、その創造こそがスガシカオの変わらぬ本質「イノセント」を印象付けている。

「国道4号線」は「黄金の月」の夢を見ます


本来なら全曲紹介したいところだが、記事も長くなってきたので、最後に一曲だけ。「国道4号線」という曲だ。これが従来のファンにとって最大級の重要アンセムとなることは、歌詞の内容からも明らかだからそこはあえて端折る。「黄金の月」という言葉が出てくることから、あとは各々想像してもらえたらと思う。
しかし、ここで私が着目したいのは、過去の光と、その速度。「覚醒」で、スガは「未来はまだけっこう変えられる」と口にした。だが、同時に未来へ向かう速度の、取返しのつかない速さにも目を向けている。そして、だからこそこの詞は最後に、ある願いで幕を閉じている。この「願い」こそが、一見してポジティブ全開、欲望むき出し全開にみえるこのアルバムに静かに通された裏糸なのである。

ゆるゆると、何周でも聴いていられる。ある意味でレトロスペクティブでもあり、プロスペクティブでもある。それがファンクのレトロでもプロスぺでもあるという音楽性とも切り離せない『イノセント』は、いまのスガシカオそのものというべきアルバムなのだろう。

あなたの光は元気だろうか。あなたを取り巻く世界の、環境の残酷さに疲れ果ててはいないだろうか。もう火を消してしまおうかと、そんな気にすらなるくらい、ひどい世の中かもしれない。しかし我々はいま同じ時を生きていて、指ひとつの操作で『イノセント』を何度でも聴ける。それはもうすでにこのうえない幸福かもしれないのだ。


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