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性的な眼差しから逃れる装置としての物語について──『ホームレス・ホームズの優雅な0円推理』発売によせて

 近年、男同士のバディものをドラマや映画で観るとき、そこに少なからずソフトなBL風味を読み取ることが、以前より多くなってきたような気がする。
 ここでいうBL風味とは男同士の恋愛を描いている要素があるということではなく、男同士の、恋愛に近い友情を描いているということだ。女同士の「百合」という概念に対して、かつては「薔薇」という表現があったが今ではそれはあまり一般には使われず「BL」という言葉が使われる。しかし「BL」とすると、「百合」にくらべてどうしても恋愛色が強くなってしまうように思う。
 そんなわけで、男同士のバディものに対する近年の傾向は、恐らく「百合」に対抗する言葉が衰退したがゆえに空洞化してしまった「BL」以外の「薔薇」を請け負うようになったのではないかという気がする。
 でも、そもそも女同士であれ男同士であれ、この手の関係を描くことが求められるのはなぜなんだろう? 考えてみると、ひとつには「恋愛を性欲と引き離してそこにある純粋性を奪還したい」という試みなんじゃないだろうか。
 恋愛と性欲は密接に結びついている。小学生の頃ならともかく、中高以降の恋愛なんてものは男女問わずどうしたって内面に抱えた欲求は溢れんばかりだ。しかし、はじめて誰かを好きになった瞬間の感情はそうした欲求と無縁だったはず。けれどその状態で静止できるのは恋ではない。静止できれば、恋の苦悩などというものは生まれないから。尊いと思えば思うほど、それに触れたい、一緒にいたい、わが物にしたい欲求はどうしたって増すもので、性欲はいわばそういった欲望の末端にある。結果として恋愛は尊さと欲望が同居するキメラ的な感情となっている。ワンセットなのだ。
 思い浮かべてみてほしい。あなたがヒトにそういう感情をもつことはともかく、ヒトがあなたをそういったキメラ的感情の対象にすることのほうが何とも落ち着かない気持ちになるものではなかろうか。この落ち着かなさは欲望全体の拒絶ではなく、欲望のなかの性的欲求の拒絶がもたらすものだ。
 尊いと思われるのもくすぐったいが、性的な欲求になると場合によっては気色悪いと感じる人もいるだろう。現実の世界では、「恋」とか「好き」とかいう言葉が放たれるとき、その下地にどうしたってそういうもろもろの匂いがついて回る。その瞬間にはそこまで考えなくても、あるとき視線や仕草から「わあ今この人、自分をそういう対象として見てるんだぁ」と感じることになる。それが嬉しい人もいる。だが、そうでない人が近年は増えてきたんじゃないだろうか。いや、増えたんじゃないな。昔から半々くらいいたんだけど、そういう潔癖性があまり表面化されなかっただけなのだろう。
 本当に最近はいろんなところで目にする。「自分は恋愛もしたい(してる)けど一方で相手からそういう目で見られるかと思うと耐え難い」という考え方。この考え方はなにも珍しいものではなくて、もしかしたらほとんどの人が実際には無意識的にはそうなんじゃないか、とも思うのだ。だって、やはり通常とはちがう感覚だから。
 たとえば単純に長く恋人といるケースを考えてもそう。そんなにしょっちゅう相手が自分を性的な対象として眺めていたら不快感が募るのは当然。共に生きていこうと思えばこそ、そんなふうにばかり見ないでくれよ、とそれは男女問わず誰でもそう思うはずだ。
 まあそんなわけで、「恋愛ー性欲」もしくは「(恋愛ー欲望全体)÷2×友情(恋愛風味のある友情)」まで包括できる百合にくらべ、BLは語の定義上それよりやや狭義となった結果、「(恋愛ー欲望全体)÷2×友情」は定義から浮いたかたちとなった。これが探偵と助手のバディの需要にひっそりと組み込まれた。したがって、BLは読まないが、ホームズとワトスンのようなバディものにキュンキュンする、というような層が存在する。
 それは例えば、以前『探偵はBARにいる3』のノベライズをやった時にも感じたことでもある。あの映画での大泉洋と松田龍平の関係は決してBLではないし、同棲愛的要素は皆無にも拘わらず、BL風味が求められている。それは『あぶない刑事』に求められるバディ像とは完全に需要が異なっているのだとわかる。どっちかといえば、ジャニーズのアイドル同志の仲の良さを喜ぶのに近い。
 このような現代的欲求を持ち合わせたヒロインがいる、と仮定してみた。
 彼女はホームズ物のファンで、自分をワトスンの生まれ変わりだと「仮定して」生きている。しかし彼女はホームズとワトスンの関係に憧れこそすれ、目の前にシャーロック・ホームズそのものが現れたとしてもそれに恋したりはしないし、恐らく恋されてもうまく反応できない。
 そういう人間が、探偵の助手を「演じる」ことになる。
「探偵と助手の恋愛風味の友情に憧れる女子が実際に助手になってしまった」的な物語はどうかな、と。かなりメタな感じだ。
 これまでの僕は、探偵と助手が恋愛をするという禁じ手を常とう手段としてきた。それを、今回の物語ではあえて「恋愛させなくていい探偵と助手の物語」にしようと思った。なんだ、それはまったくふつうのバディものじゃないか、と思うかもしれないが、個人的には一周回ってできた感がある。これが新しいのかそうでないのかはしょうじき書き終えた今もわからない。
 「バスカヴィル家の犬」に着想を得ているが、下敷きにしたとまでは言えないので、純粋に別物と思ってこの世界を愉しんでいただければ幸いである。目指したのは、恋愛できない女の子と彼女がホームズの生まれ代わりと信じるホームレスの男による、恋愛しない恋愛風味のバディもののメタ。なのかな。
 小説の最後にとっておきの秘密がある。なので、その秘密は読み終えても誰にも内緒にしておいてほしい。といったところでこの話はおしまい。まあ言いたいことは、『ホームレス・ホームズの優雅な0円推理』は本日から全国発売。まずは書店さんへGOということです。ではでは今夜はこの辺で失礼します。

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