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スガシカオ『労働なんかしないで光合成だけで生きたい』はスガ史上最大級の拡散力をもった「ドラッグ」だ。(前半)

 スガシカオ(敬称略)は危険きわまりないドラッグである。なんて言ったら、昨今は物騒に思われるかも知れない。が、実際、自分には「スガシカオをキメる」としか言いようのない音楽体験がある。ファンクが聴きたいとか、ブラックミュージックが聴きたいとか、そういうことじゃない。「スガシカオをキメたい」のだ。
 若い頃からこの欲求はかなり高い頻度で起こった。つまり中毒性が高いのだ。まあそれは聴けばわかるし、今はくどくどと説明しない。それよりも今日発売されたアルバムの話をしなければ。そう、『労働なんかしないで光合成だけで生きたい』だ。
 長くなりそうなので、前半後半に分けて公開することにしたい。
とにかく、一聴して思ったのは、ど真ん中のスガシカオだ、ということだ。
何のてらいもない、ありのままの、そして21年前に19歳の小説家志望の青年が惚れこんだままのスガシカオの音楽がそこに投げ出されている。もちろん、音楽的な進化はあの頃の比ではない。
 このアルバムについて、スガシカオは発売前に「最高傑作ではないけど、めちゃくちゃいい曲ばかり」と言っていた。そのとおりの内容である。恐らく、彼の言う「最高傑作」とは「かつてない」「最新で、最上の」という意味があるだろう。その意味で言えば、このアルバムの楽曲は「かつてない」ではない。むしろその手触りは、20年来のスガシカオファンを歓喜させるものだ。
 前作の『THE LAST』は、現代音楽からの影響、クラブミュージックやダブ・ステップ、ボカロ的楽曲を前提とした現代ミュージックシーンにおいて、なお「尖鋭」であるためのアルバムだった。同年代の友人の中には「ちょっと俺には尖りすぎだった」とか「なんか、すごいけどなんて言ったらいいかわからない」という困惑まじりの声もあった。要するに、20年前にスガシカオのファンだった古いリスナーを振り切ってしまうほどに突っ走っているアルバムだったのだ。
 だが、その中で「海賊と黒い海」という楽曲があった。その一曲だけは、かつてのスガシカオがやったであろうAORのメロウな楽曲で、これは学生時代の友人にも勧められそうだ、と思ったのを覚えている。
 一方で、たとえば自分の娘なんかは今のスガシカオのファンだ。きっとスガシカオは今なお若いリスナーを開拓し続けている。それはライブの動員数からもわかることだ。だから、「最新で最上の」スガシカオはつねに新しいリスナーを開拓しているはずである。
 自分は、今も昔も、つねに彼の音楽に脳天を撃ち抜かれる。だが、それは自分が小説を書くとか、そういう自己更新が大前提の仕事をしているせいもあるのかも知れない。たとえば同世代の中には、すでに自己更新をとっくの昔に諦めた者もいる。彼らには彼らの日常がある。そういう人たちの日常にはもう現在のスガシカオの音楽は届かないのか? 彼らは過去の名盤『Sweet』を聴いていればいいのか?
 恐らく、そんな疑問への解答が、このアルバムではないか。そこにあるのは、等身大のスガシカオだ。最新でも最上でもないかも知れないが、あの頃のスガシカオでもあり、今日のありのままのスガシカオでもある。そういうありのままの音楽がそこにあるのだ。そして、その「着の身着のままのドラッグ」こそが、最大公約数であり、とてつもない拡散力をもったある種「最大級に危険なドラッグ」でもあるのだ。
 
 一曲ずつ見てみよう。

01「労働なんかしないで光合成だけで生きたい」
SNSでこのタイトルを初めて目にした時は一瞬目を疑ったものだ。しかし、冷静になれば、これは現代にアップデートされたスガシカオを体現するようなタイトルでもあった。
音楽的には「赤い実」のようなスキャンダルの匂いを孕んでスタートし、「バクダン・ジュース」のように現実を飛ばすタイプの「ドラッグ」が流れ、そこから消せない現実なら踊っちゃえよとばかりの「party people」を彷彿とさせる爽快なサビへと向かう。とくに1番2番が終わった後、後半にこそタイトルの真の意味が隠されているので歌詞にも注目して聴いてほしい。「幸福の意味」を勝手に決めていないか。最近、「植物は生物ではないと決め込んでいないか」といったことを考えていた。こういうの、共時性というのだろうか。たとえば、植物があなたより幸福だと断言したら、あなたはハ?と思うかも知れない。でもそれくらい「幸福」はそこかしこにあるものでもある。そんなことをふと思った。

02「遠い夜明け」
イントロからすぐにザ・スガシカオな名曲とわかる。そういう楽曲だ。音楽的には「サヨナラ」「光の川」「約束」あたりを思い出す。一方で歌詞からは『夜明け前』を思い出した。あの頃のスガは「いま夜の闇に向け撃ち放つ僕らの銃声は見えないその壁を一瞬で突き破ろうとして街にただ響いただけ」と歌った。世紀末に「夜明け前」にあったはずのスガが今は「遠い夜明け」を歌う。夜は長く引き伸ばされ、明けるはずが遠ざかったのか。それともこれはまた次の夜にいるのか。「暖炉の火」という原始的なモチーフが出てくるのも面白い。どこかの山小屋に合宿にでも来ているのか。それともこれはネットの「炎上」を比喩しているのか。世代によって、あるいは人によって読み解き方も変わってくるだろう。
「出会うべき答えはぼくら自分で見つけなきゃ」というシンプルな言葉は、あまりにシンプルであるがゆえにハッとする人も多いはずだ。ネットの洪水では自分の言葉を話しているつもりが、いつの間にか誰かの受け売りだったりする。答えを自分で見つけることさえ難しい時代に、我々は立っているのだ。そんな現在地に気づかせてくれる。そしてたしかに、ここは「遠い夜明け」なのかも知れない。
 
03「あんなこと、男の人みんなしたりするの?」
このタイトル、恋人のいる女性は、一度くらい思ったことがあるのではないか。目の前にいる恋人は、居酒屋の後ろの席で下卑た話に興じる男たちのようなことを、自分のいないところでしたり、話したりするのだろうか? と。そんな誰もがふと考えてしまう、日常のとなりにある些細な心配を、スガの歌詞はうまく捉えている。音楽的には「あなた一人だけ幸せになることは許されないのよ」とか「潔癖」なんかの心病んだ女性一人称の系統にある作品ぽくもあるが、個人的に『Family』収録の「たいくつ/ゆううつ」っぽさを感じる。じくじくした裏表を抱く者が、「あんな汚い言葉君は言わないよね?」と、他者には尊さだけを求めてしまう。しかし同時に、それが願いでしかなく、その清さを自分が守り通してやることすらできないとどこかで知っている。そのゴツゴツとした現実の粗い手触りの中で、それでも尊さを願う瞬間にこそ、「尊さ」はあるのではないか。そんなことを考えさせる一曲だ。
補記:この「私」と「君」の感じは、通常の男女の仲よりも遠さを感じる。少し偶像視しすぎているからこそのつらさというか。なのでこれは恋人ではなく片想いの歌なのだろう。この歌詞を読んで、こういう歌はひと昔であればじくじくした男の内面として描かれてこそ「意外性」があったかも知れないし、スガはよくこういう妄想男性を描いてきたよなあと思い出す。
 でも時は変わり、男の内面がべったりじとじとしたものであることが当たり前になった今は、むしろ「女にだってあるよ、当たり前だよ」とこういう視点で描かれるほうがむしろ自然に感じられる。スガシカオはこうした時代の空気にも敏感に反応しているように思う。
 
04「am5:00」
 じつはこのアルバムの隠れた心臓なんじゃないかという気がする。ノイズまじりの非常に静かな始まりから、田中義人の大人なギターストリングスが心地よく響き、スガのかすれたエロティックな高音ボイスが絡み合う。これだけでも白眉なのだが、歌詞、歌詞がすごいのだ。
そこに描かれているのは、若いカップルのとても小さな日常の一コマだ。なんてことのない風景。でもそのなんてことのない風景の中に、なんてことなくはないものが潜んでいる。
明け方五時に「僕」を気遣って起こさぬように出て行く「君」。バイトに行くのか、家に帰るのか。そこには重苦しい別れの気配はない。けれどそんな「君」に気づかぬふりで睡魔に負けようとする自分のなかの「悪魔」に「僕」は敏感に反応している。何気なくやり過ごされる恋人同士の風景。でもそこには、いつかの別れの要素が、もしかしたらあるかも知れない。たぶん「僕」が恐れているのは「悪魔」以上にそんな未来のほうなのかも知れない。
 こんな静謐で、あまりに穏やかな風景のなかに、「ドラッグの心臓」が隠されていることに本当に驚かされた。そして個人的にふと、午前五時にバイトの支度をする彼女を寝たふりで見送ったことがあったっけな、と思った。そんな記憶はなかった。うそだ、そんなはずは…と思った。それくらい歌を聴いているあいだの過去を抉る感覚がリアルだったのだ。まあ、こうした、「ない記憶」を味わえるのも、スガをキメる醍醐味ではないかと思う。

(前半は終わり。後半は次の記事をクリック)

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