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それは私であった可能性と偶然への気づき~『思いがけず利他』中島岳志著

大企業で部長やっている友だちから、「部下が受け身ではなく、積極的に仕事に取り組めるようになる一冊」を教えてほしいと相談をうけた。コロナ前なら、意識高い系のビジネス書を紹介していたと思うのだけど、このコロナ疲れが蔓延する世界で、線形的な成長を想定したようなノウハウ本では、逆に部下を疲れさせてしまうのではないかという気もして、いろいろ考え紹介したのが、東工大の中島先生が書いた『思いがけず利他』という本だった。

「利他」。今年はこの言葉に始まり、この言葉で終わる一年だったように思う。今年の初めに行った「お寺の掃除と協調的幸福度」の調査の中では「利他」という言葉が登場した。また、東工大で伊藤亜紗先生を率いる「利他プロジェクト」による「利他学会議」がオンライン開催されたり、『「利他」とは何か』が出版されたりと、何かと「利他」を目にすることが多かった。

しかしながら、この「利他」という言葉に触れるたびに、私の中では何か消化不良を起こし、モヤモヤしたものがあった。例えば、フランスの知の巨人と呼ばれるジャック・アタリが「合理的利他主義」がこのコロナ禍では大事だと言っていたが、どうもしっくりこない。コロナに感染しないためには、他者からの感染を防ぎ、また他者への感染させないよう行動する必要がある。利他的に行動することは、巡り巡って自分のためになる、それが「合理的利他主義」だという。

他にも「感謝」。ここ数年、企業では、インターネットツールを使って社員同士が感謝メッセージを送り合うという福利厚生施策がプチ流行した。感謝した量や感謝された量が多い人は、月に1回といった定期的な頻度で、ちょっとしたご褒美や表彰されたりもする。わたしは、この感謝データを使った分析をいくつかの企業でやらせてもらって、それなりに面白い発見もあった。(昔、以下の記事にまとめたりした)

しかし、その感謝ツールを導入した企業からしばしば相談を受けたのが、「感謝する人としない人(ツールを使う人と使わない人)の二極化が起きてしまうがどうしたらいいか」というものだ。実際に利用している社員に話を聞くと、「感謝しなければいけないという雰囲気が疲れる」「感謝しろというプレッシャーが嫌だ」「表彰されたいから感謝しているわけではない」といったように、感謝の形がツールによって規定されたことでネガティブ感情が生成されてしまったようだった。「感謝」そのものが悪いわけではない。なのに、なぜ感謝疲れを生じさせてしまったのだろうか。

『思いがけず利他』には、利他について以下のように書いてある。

特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからないということです。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわかりません。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えません。むしろ、暴力的なことになる可能性もあります。いわゆる「ありがた迷惑」というものですね。
つまり、「利他」は与えたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのです。自分の行為の結果は、所有できません。あらゆる未来は不確実です。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができません。

ジャック・アタリの「合理的利他主義」がモヤモヤするのは、「利他」といいながら結局は自分のためという「利己」の問題になっているからだ。利己的なことを利他という言葉で美しくカモフラージュしていることにモヤモヤするのだ。

感謝も同様である。日常的に行われている感謝は、偶然的であり、心から感謝の念がでたときにふと言葉として起こるものだ。だけど、感謝が評価対象になることで、「感謝しなければならない」と必然性へと変化してしまった。感謝され評価されたいがゆえに、「良いことをして相手に感謝を押し付ける」行為が広がると、周囲に「負債感」を与てしまう。だけど、「感謝は良いこと」という常識がそのような「ありがた迷惑」な行動に対し、抑止力が効かなくなってしまうのだろう。

「偶然」について、『思いがけず利他』には以下のような記述がある。

私の存在にかかわる「偶然」や「運」に目を向けることで、私たちは他者へと開かれ、共に支えあうという連帯意識を醸成するというのです。
「利他は偶然への認識によって生まれる」ということです。
偶然性の探求は、そもそも私という存在が<いなかったかもしれない>という可能性に出会わざるを得ない。

私という存在が<いなかったかもしれない>という可能性、他の言い方として、<それは私であった>という可能性でもあるといえる。

講談社の現代新書のウェブ記事に、釈徹宗さんと若松英輔さんの往復書簡で、以下のようなことが書かれてあった。

宗教を「信仰を持つ人だけの問題である」と捉えている限り、この往復書簡のもくろみは成功しません。宗教に無関心な人の当事者意識というのが大切です。例えば、環境問題や原発問題などはどこにも部外者はいません。われわれは電気を使っている以上、誰もが当事者です。LGBTQの問題だって、誰もが当事者ですよね。自分はヘテロセクシャルだから関係ない、なんてことではこの問題は良い方向へと向かいません。それと同じです。

この往復書簡を読んだとき、私はハッとした。「自分はヘテロセクシャルだから関係ない」と思っていたなと。この考えは、いろんな表現に置き換えることができる。「その病気になったのは私だったかもしれない」可能性、「その事故は私が起こしていたかもしれない」可能性、「その苦しみは私が受けていたかもしれない」可能性といったように。

多くの偶然で、今の私の幸福が成り立っている。しかし、その偶然に気づかずにいる、例えば、いい大学にいき、いい会社で働けているのは、「自分のおかげ」と思っている限り、世界はどこまでいっても不幸のままだ。

そういえば、ティック・ナット・ハンの『微笑みを生きる』で、似たようなことが書かれていたことを思い出した。

インタービーイング(相互共存)の目で見てはじめて、あの幼い少女があの底なしの苦しみから解放されるのです。
自分を深く見つめたら、売春婦の少女が見え、この子の苦痛と全世界の苦しみをともに分かち合うことができるのです。そのときにこそ、私たちは、本当の意味で、この子を救う一歩を踏み出せるのです。

当時は、なぜ自分を深く見つめたら、少女が苦しみから解放されるのか、理解できなかった。しかし、今ならわかる。私がその少女でないのは「偶然」であり、同時に少女が苦しみの中にあるのも「偶然」である。自力ではどうしようもないことがあって、それを認識したときに、他力が起動する。そこに、偶然が入り込み、そして利他に繋がっていく。

人生の意味や仕事の意義は事後的にしかわからない。冒頭に書いた友だちから「部下が受け身ではなく、積極的に仕事に取り組めるようになる一冊」というお題。多くの偶然に気づき、今の自分の受け入れることによって、利他へとつながっていく。利他への道を歩みだしたとき、自然と、仕事に取り組めるようになっているはずだ。自分のためでなく、お客さんのことを思うとき、同僚や仲間のことを思うとき、気づいたらそういう行動を取っていたとなるだろうと思う。

ただし、企業は多くの評価で溢れているので、容易に利己的になりやすい。「利他的に行動しなさい」と言ってしまった時点で、社員の多くは利己的に行動してしまうだろう。もし「こんなに利他的に仕事を頑張っているのに成果出ない」と愚痴がでるようであれば、そこには利己が混ざっている。貪瞋痴(とんじんち)が噴出したときに、自分は今苦しんでいるんだ、ということが気づけるきっかけが組織の中に構造的にあるとよいのかもしれない。


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