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お粥やの物語 第2章1-2 「優柔不断な僕は、選ぶのが苦手です」

カンターから出て来た店主は、お茶の入った湯呑をテーブルの上に静かに置き、白いお絞りを僕に手渡した。ほどよい熱さのお絞りは、冷えた手にとても気持ちいい。
続いて、店主は僕にタオルを差し出した。
僕は礼を言ってから、乾いたタオルで顔と髪を拭いた。

店主は目を細めて僕を見ている。
僕は慌てて、腕や肩の水滴をタオルで拭き取った。
「濡れた格好ですみません」
僕はぺこりと頭を下げてから、丁寧に畳んだタオルを店主に返した。

「急な雨でしたからね。その程度で済んでよかったです」
店主の声はどこまでも温かくて、僕の胸の奥にじんわりと沁み込んでくる。

いかん、いかん、このままでは泣いてしまう。
僕は涙が零れないようにと顎を持ち上げ、頭に引っかかっていた疑問を口にした。
「この店は、前からありましたか」
「脱サラをして、ここに店を開いたのは十年前です」
僕がこの町で暮らし始めた三年半前には、すでに、「お粥や」は創業六年半の計算になる。

僕の顔に怪訝な表情が浮かんだのだろう。
店主は「何か気なることでもありますか」と口角を吊り上げて笑みを強めた。
その笑顔に促され、三年以上もこの店に気づかなかったことを正直に打ち明けた。

「目立たない店ですからね」店主は穏やかに笑いながら言葉を続けた。
「でも、お客さんは今日、この店に気づきました。それで十分です」
僕の胸の中は温かさを増し、涙腺は崩壊寸前だ。

「何にしましょう。ご覧のとおり、うちには三品しかありませんが」
店主は照れ隠しのように口の皺を深くして笑い、壁にある三枚の品書きに顔を向けた。

三品しかない、ではなく、僕にとっては三品もだ。
カレーとハンバーグ、ラーメンの三種類から選ぶのとは訳が違う。
同じ、お粥という括りの中に三品もあるのだ。
いざ、注文しようとすると、言葉が喉に詰まって出てこない。

僕は選ぶのが苦手だ。彼女とデートしたとき、食事をする店を決められなくて、「ダメな男ね」と睨まれたことは何度もある。いや、毎回と言ってもいいくらいだ。
店主に、おすすめの内容を尋ねればいいのだが、それもできない。
子供の頃から、他人に何かを訊くことも苦手だ。

それならば自分で考えるしなかい。
梅粥は白粥に梅干しが添えてあり、卵粥は白粥に生卵を流し込んだものだろう。どちらかを選べと言われたら、動物性タンパク質である卵を選ぶ。
いやいや、疲れたときは梅干しの酸っぱさがいいんだ。

二つのお粥に割り込むように、店主のおすすめが頭の中を駆け巡る。
正体がわからない、店主のおすすめは、択一の問題をさらに複雑にする。
なにせ、おすすめなのだ。鮭が載っていても不思議ではないし、可能性が高いとは思えないが、肉が混じっているかもしれない。
とは言え、店主のおすすめとある以上、店主の主観が混じっているのは明らかで、野菜ばかりや、キノコが主体の場合もあり得る。

ちなみに、僕は人参と春菊が苦手だ。
いまの状況で、そんなものがお粥に入っていたら、肩を落とすだけではすまない。おそらく、絶叫する。

店主に気づかれないように、そっと息を吐き出した。
どうして、いつもこうなんだろう……。
僕にとって決断力のある人は、とても眩しい存在だ。

祖母の皺くちゃの顔を思い出しながら梅粥と言いかけたが、咄嗟のところで思い直し、「店主のおすすめでお願いします」と口にした。
お粥に牛肉が入っているとは思えないが、チャレンジはする価値はあるだろう。

店主は、「承りました」とよく通る声で返事をしてから、カウンターの向こうに姿を消した。

第2章2-1へ続きます。


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