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推し活から少し離れたら心がちょっと豊かになった話

決して批判ではない。
いろんな推し方があっていいと思う。

でも、少し疲れてしまっていたのだろう。
去年の今頃の私は、だいぶ疲弊していたように感じる。

思えば推し活は人生の糧だった。
推し活の本質は自分を豊かにすることだ。
推しを好きにならなければ絶対に行くこともなかったであろう場所に行き、
知り合うこともなかったであろう人とこの上ない友達になり、
知らない世界の門をたくさんたたいてきた。

それがいつしか、義務のような重苦しさを伴って私に迫ってくるようになる。

好きという気持ちは紙一重だ。
気持ちが大きくなればなるほど、それは他人に対して実態を伴わない強制力を持ったり、本質的ではない批判をするようになってしまう。

“好き”はいつしか自分の中で正義になり、誰かの自由を奪ってしまう。
“好き”はいつしか主役になり、推しは自分の中で作り上げられた虚像の中で育つようになる。

それが、私が推し活を初めてだいぶたった時に感じた重圧だった。

そのころ偶然、プライベートで大変なことが重なり推し活どころではなくなってしまった。
強制的にSNSを離れざるを得なくなった私は、本質的ではない推し活によって見えなくなっていたものがあったことに気づく。

推し活は私の人生を豊かにするものであって、
私自身を消費するものではないのだ。

かつて推し活に縛られていた私は、一歩離れてみれば正直言ってどうでもいい、消耗する必要のないあれこれに異常に神経をすり減らしていたように思う。

もちろん無理に離れろという話ではない。
でも、今少し苦しいなら、ちょっとずつ顔を上げてみて、自分の現実世界に目を向けてほしい。

たぶん悩みがちっぽけになるくらい、本当の意味での推し活の楽しさに気づけるはずだから。

おわり


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