見まわり同心

日向を探しに小さな旅に出ます、鳥になって。

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日向を探しに小さな旅に出ます、鳥になって。

最近の記事

東金・見廻り隊(東金城跡)

 室町時代、千葉県両総には土気酒井氏と東金酒井氏の二つの城があった。両酒井氏は、後北条氏や里見氏の庇護のもと戦国時代を迎えるが、秀吉軍との戦いで敗れ後北条氏と共に滅んだ。その後、家康公により両地は天領地となり城の必要はなくなった。  両総酒井氏の家紋は、俵藤太・藤原秀郷(福俵)の家紋「左右・三つ巴」 東金酒井氏は「右三つ巴」家紋、菩提寺は日蓮宗・本漸寺です。  荒川氏から始まる酒井氏は、桓武平氏、清和源氏、土岐氏の家紋を受け継ぎますが、家康公の家臣・酒井忠次の家紋は「丸に片

    • 江東・見廻り隊3(富岡八幡宮)

       深川にある富岡八幡宮、別当寺は真言宗高野派・永代寺です。深川は、徳川8代将軍吉宗の孫・松平定信や伊能忠敬ゆかりの地でもあります。 「深川や木更津舟の年籠(としごもり)」・正岡子規

      • 鎌倉・見廻り隊4(長谷寺)

         「長谷観音」で知られる鎌倉の長谷寺*は、浄土宗のお寺。境内には、小川一族のシンボル、槇の樹が多く残っています。直ぐ近くに、日蓮宗の光則寺があります。            *奈良の長谷寺は、真言宗豊山派   嵯峨源氏、源融(河原左大臣)が東北を詠んだ歌、 「みちのくのしのぶ*もぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに」  *福島県信夫(しのぶ)郡/信夫の佐藤兄弟は、義経に随行して鎌倉に来た   

        • 板橋・見廻り隊4(熊野神社)

           坂東平氏・志村氏の居城だった志村城跡に建つ熊野神社です。熊野神社を象徴する八咫烏が見えます。小川一族の八幡太郎義家父子も、奥州へ向かう際に訪れました。  中世の時、博多に行かず千葉に残っていた千葉氏一族が跡目争いの末に分裂をした。千葉自胤が赤塚城に入り千葉信胤がここ志村城に入る。上杉氏、後・北条氏、里見氏なども加わる坂東を巻き込んだ千葉氏・亥鼻との同族争いが始まります。 「しくれては熊野を出る烏哉」・正岡子規

        東金・見廻り隊(東金城跡)

          浦和・見廻り隊3(玉蔵院)

           中山道沿いにある真言宗豊山派のお寺、玉蔵院です。浦和の領主が、浅野氏、徳川氏と続き宿場として栄えました。一族のシンボル、槇が確認できます。  百人一首、寂蓮法師(藤原定長)の歌、 「村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」

          浦和・見廻り隊3(玉蔵院)

          戸田・見廻り隊8(常福寺)

          中町にある浄土宗常福寺です。見越しの槇が楽しめます。 平安時代から続く戸田氏、家紋は六星紋と連翹紋。六星紋を持つ滝沢馬琴は戸田氏に仕えていました。 「武蔵野の隅に江戸あり青嵐」・正岡子規

          戸田・見廻り隊8(常福寺)

          見廻り隊(栞葉書)

          「伊勢人のはがきに刷りし初日哉」・正岡子規

          見廻り隊(栞葉書)

          中央区・見廻り隊2(鉄砲洲)

          鍛冶橋通りを八丁堀へ向かい、江戸湊の入り口で鉄砲洲通りを右折すると、富士講で知られた稲荷神社に着く。この周辺は、佐藤家の敷地だった。 1736年から始まった吉宗公の「享保の改革」に協力した鉄砲洲の佐藤家は、幕府の狩場・塚崎野、千葉県東金市に移ります。 「鉄砲のとどかぬ空や鳥帰る」・正岡子規

          中央区・見廻り隊2(鉄砲洲)

          北区・見廻り隊4(王子稲荷神社)

           稲荷神社の総数は、境内社・合祀を加えると約32,000社。荒川沿いに多く、その一社・王子稲荷神社です。北の荒川と対岸の川口を含むこの一帯は、平安時代前から砂鉄の産地で製鉄が盛んだった。此処で働く職人は多く多々良の歴史を受け継ぎ、朱色の鳥居で邪心を焼き払い無垢な心で火と仕事に向かい合った。  近くは田端、芥川龍之介の隣に住んでいた鋳金家でアララギの歌人、香取秀真の歌がある。 「浅茅原茅生の焼原やけのあと灰の黒きに春雨のふる」  「たたら祭り」や「ふいご祭り」はないが、王子には

          北区・見廻り隊4(王子稲荷神社)

          台東・見廻り隊7(浅草神社)

          小川一族の土師氏を祀る浅草神社。此処で、比企からの一族も加わり頼朝公は、共に鎌倉を目指した。後年、家康公も此処に一族の祭神として祀られている。 「浅草や鳩の羽颪離れ蝶」・正岡子規

          台東・見廻り隊7(浅草神社)

          新宿・見廻り隊3(雷電稲荷神社)

          花園神社の境内にある雷電稲荷神社です。江戸庶民から「内藤新宿の稲荷様」と呼ばれ、伊勢丹の地から移って来ました。 「雷電の物買いにくる年の市」・正岡子規

          新宿・見廻り隊3(雷電稲荷神社)

          港・見廻り隊5(豊川稲荷)

           元赤坂にある豊川稲荷、曹洞宗・妙厳寺の東京別院です。今日、2月12日は初午、縁日の境内は参詣者で賑わっています。稲荷の使いと云われる白狐が左に写っています。  稲荷とは何か?千葉県市原市稲荷台から、埼玉県行田市の稲荷山から鉄剣が出土した。稲荷山の鉄剣には、471年製造と表記されている。推古天皇の即位が592年。我々は、柳田国男氏の云う「海上の道」を北上した末裔か、興味深い。 「初午の狐を馬にのせにけり」・正岡子規  演歌歌手に川の付く歌手が多い。ご利益を期待したのだろうか

          港・見廻り隊5(豊川稲荷)

          戸田・見廻り隊7(新曽氷川神社)

           新曽にある氷川神社は、八幡神社と稲荷社が合祀されている。鳥居の先に、雌花と雄花が結実する「夫婦柿」があります。  柿好きで通る、歴史に登場する人物に柿好きが多くいる。中でも、徳川家康と正岡子規の二人は別格です。二人は、小川一族への拘りでも徹底していました。そして、佐藤家は両家との関りを持っていました。 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」・正岡子規  この柿を詠んだ有名な法隆寺の俳句は、「富小川の流れを汲む者」への拘りを詠んでいます。富小川は法隆寺のある斑鳩にあり、奈良市の俳句

          戸田・見廻り隊7(新曽氷川神社)

          身延・見廻り隊(久遠寺)

           日蓮聖人が眠る身延山久遠寺です。甲斐源氏の本家・南部氏は奥州に移り甲斐に残った波木井六郎実長が日蓮宗に用意した地、身延山。  一族の贈与でしたが、上総介秀胤の遺児・日朗は鎌倉幕府にとって要注意人物となり鎌倉に拘束されてしまった。日朗は、久遠寺の輪番に加わることが出来ませんでした。 「日蓮を埋めし山に風は吹けどとこしへに消えぬ法のともし火」・正岡子規

          身延・見廻り隊(久遠寺)

          荒川・見廻り隊4(諏方神社)

           信仰のある処に社あり。西日暮里駅で下車して、「道灌山」と呼ばれている諏訪台の坂を登りきる。左に神々が集まり相談する杜、「土器投げ(瓦投げ)」でも知られる諏方神社がある。更級日記が語る「酒を作る壺」もあったのだろうか。  別当寺・浄光寺のお寺は、鳥居の左にあります。 「山吹の岸も過ぎけり渡し舟」・正岡子

          荒川・見廻り隊4(諏方神社)

          北区・見廻り隊3(諏訪神社)

           赤羽の諏訪神社は、海抜20メートルほどの赤羽台の上に建っている。北に荒川が流れ川向うは埼玉県川口市。此の地は元蕨に近く多々良の歴史を共有している。  諏訪神社には、誉田・八幡様も祀られている。別当寺は川口・錫杖寺の末寺、真頂院。真言宗智山派のお寺です。 「なおざりに焼き捨てし野のさわらびは折る人なくてほどろ*とやなる」・西行               *ほどろ 伸びすぎた蕨の羊歯状の葉  

          北区・見廻り隊3(諏訪神社)