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文京・見廻り隊3(伝通院)

伝通院からの続きです。
菅原道真公を祖とする久松家は星梅鉢紋。伝通院の水野家は沢潟紋です。院内にあったお墓は、小川の家紋では珍しかったので失礼を承知で撮らして頂きました。

 徳川家康の生母・お大の方(伝通院)は、家康の父・松平広忠と離縁した後、久松俊勝と再婚して3男3女を授かり、三男の定勝は久松姓から松平姓を名乗り伊予松山城主となります。この伊予松山藩に家臣扱いになっていた「奥の細道」で芭蕉翁に随行する河合曾良がいた。
 沢潟紋を持ち、「北の山」と呼ばれていた千葉院内に芭蕉翁が来た時、道場では諸藩から選ばれた子弟たちが競って学んでいました。河合曾良は此処の卒業生です。奥州での打ち合わせが済み、芭蕉翁は「うらやまし浮世の北の山桜」の句を残しました。
 明治になり、市川で買い求めた蓑を持った青年が院内を訪ねて来た。「伊予松山の正岡」と名乗った青年は、会ったことのない日朗を彷彿させた聞いています。

 根岸の子規庵には、日本各地から人が集まり新しいネットワークができました。蕨兄弟、伊藤左千夫、香取秀真、長塚節等の坂東の末裔が訪ねると、子規さんは喜び歴史探索へと話が弾んでいきました。
「アララギ」の歌人・古泉千樫(ちかし)は此処・伝通院に眠ります。
「みんなみの嶺岡山のやくる火のこよひもあかく見えにけるかも」・千樫

 
 

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