『Delueze and the Diagram』 by Jakub Zdebik

2023年後半は、Jakub Zdebik "Delueze and the Diagram" (Bloomsbury, 2013)という本と格闘していた。ドゥルーズのテクストにはしばしば〈ダイアグラム〉という語が出てくるが、いったいこれはどういう意味を持つのか、というモノグラフである。Zdebikはオタワ大学で美術史と批評を教えているらしい。https://uniweb.uottawa.ca/members/2814

我々はなぜ図解するのか、を調べていくと、やがてダイアグラムの考察におけるドゥルーズの言及に其処此処で出くわす。ドゥルーズのテクストにおけるダイアグラムを分析する際の障壁は、ドゥルーズがダイアグラムだけを取り上げて論じた独立したテクストが存在しないことである。この本は、あちらこちらに散らばっているドゥルーズによるダイアグラムの言及を拾い出すことから始まっている。それによれば、主要な言及は『フーコー』『千のプラトー』『フランシス・ベーコン』に見出される。Zdebikはこれらの箇所から読み取れるのは、ドゥルーズはダイアグラムという語によって、新しい哲学の方法を描こうとしていたという点である。

Zdebikによれば、ダイアグラムとは「抽象と具体」「現実と仮想」という二項対立に対して、第三の次元を与えるための方法である。これは勿論フーコーにおけるパノプティコンというダイアグラムをお手本としている。フーコーにおいてダイアグラムとは、権力という不可視のシステムが、目に見えるモノや生命の行動を統制する仕組みであり、抽象的な力が具体的な現実に影響することの説明となっている(ch. 1 "System")。

この本ではダイアグラムとは、何かを描写するものというだけではなくて、何かを作り出すもの(あるいは何かを発見するもの)としても説明されている。描写するダイアグラムの機能をTracingと呼び、作り出す(発見する)ほうをMappingと呼んでいる(p.12)。ダイアグラムにはこうした2つの機能があるというわけだが、こうした指摘は特に目新しいものではない。問題は、ダイアグラムにはなぜこうした2つの機能がある、と言われるのか。というのも、絵画でも写真でも、どんなイメージもこうした2つの機能を持っているとも言えるからだ。なぜダイアグラムだけについて、こうしたことが強調されるのか?

それを考えるうえで、第2章「Black Line, White Surface」(pp. 66-108)が手掛かりを与えてくれる。ここでZdebikは、ダイアグラムという視覚イメージの質感をもった「モノ」に、なぜ目に見えるモノ以外の何かを発見させる機能が存在するのかを、かなり苦心して説明しているように読める。大まかに言えば、次のような流れの議論になっている。

  1. ダイアグラムとテクスト(イメージと言語)の共通点は、どちらも白い紙の上に黒い線で書かれるということである。こうして言語の知識とイメージの知識には共通の基盤が存在する。ここで、線とは体系化した知識を生み出すものである。

  2. しかし、パウル・クレーの絵画では、線は単に何かの形状や輪郭を描くものではない。黒く太く描かれた矢印の線は、線そのものにエネルギーの発露が仮託されている。

  3. ここで線を描く筆致(traits)という語を考えてみれば、traitsには「特性」という意味もある。ダイアグラムは現実のイメージの中から、ある特定のいくつかの特性を選び出して現実を表象する仕組みであって、その意味では現実そのものではないが、現実を再生するには必要な最低限の情報を伝達することができる仕組みでもある。このtraitsが筆致(筆さばき)という意味も含んでいるのは、まさにクレーが主張するようなエネルギーの発露を含意することになる。こうして、ダイアグラムは何かを描写するとともに、何かを生み出すものともなる。

ここでのZdebikの議論は、フーコー、リオタール、マグリット、クレー、ハイデガーなどを目まぐるしく参照しながら進められるため、どこまで議論を追えているかどうかは甚だ自信はないが、ダイアグラムが発見の次元を与えるものだという主張の中に、クレーの矢印がでてくるのが面白い。

さらに言えば、この矢印が発露するエネルギーは、画家の中から湧き出てくるのだという風にZdebikが主張しているように読める点だ。

・・・このエネルギーは矢印が指し示す有向性(directionality)からくるものであって、明るい色合いが示すであろうような光の印象から生まれるものではない。しかし、この原理は画家本人からもたらされるものであって、形式に関する慣例や、表象システムの規則によって基礎づけられているものではない。ここで開かれる空間は、絵画における奥行きの次元ではなく、画家の中の奥行きの次元(a depth in the painter)なのである。

p. 94

さて、この主張をそのまま読めば、素朴な主観主義(subjectivism)に聞こえないだろうか。それとも私の読み方がおかしいだろうか。そもそもa depth in the painterとは何か?おそらくドゥルーズにおける矢印を詳細に検討する必要があるようだ。そもそもドゥルーズのテクストを殆ど読んだことがないのでまだ見通しが立たないけれども、Deleuzian Arrowsというのはドゥルーズの哲学原理のなかで何か特別な位置を占めるのではないか?そう言えば、『フランシス・ベーコン』をかつてざっと読んだ時に感じた違和感、すなわちベーコンの絵画にしばしば登場する矢印について、ドゥルーズはほぼ全く言及していないようなのだ。この沈黙は何を意味しているのだろうか?

https://www.artsy.net/artwork/francis-bacon-l-homme-au-lavabo-1


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