むせかえる (210627)

 二度も延期された軽音サークルの二年生ライブが一〇分休みに入った。私は入口で渡されたドリンク券を欲しくもないコーラと交換し、エントランスの壁のくぼみに身体をすっぽりはめ込んでちびちび飲み始めた。年末にサークルを引退した三年生の男女が、フロアから出てきながらついさっき出演したばかりのコピバンの話をしていた。「トニー、ドラムうまいよなあ……」「美砂の網タイツめちゃくちゃエロくなかった?」男女は私の目の前を行き過ぎてタバコに火をつけ、ソファに腰を落ち着けた。
「ケイスケまだ来ないの?」
「なんか面接あるらしくてあと一時間したら来るらしいけど」
「あっそう」
 男女は灰皿に灰を落として二年生からもらった缶ビールに口をつけた。私はコーラを飲んでいた。
 かれらは私の知らない人達だった。知るすべがなかったのだ。私が一年生の十月ごろにこのサークルに入った時点で内部の力関係はある程度形成され終えていたため、私はつねにかれらにとって外部の存在だった。同級生と上級生どうしが交わす会話には、無数の合言葉や決め事が含まれており、そこに私がつけいる隙はなかった。かれらの中でも私の顔、名前を覚えている者はいくらかいるだろうが、それでも大して知らない人間なのだから積極的に関わる理由にはならなかった。
 依然フロアにとどまって話し合う群れと、控え室に戻った群れと、エントランスでたむろする群れに分かれた。私はスマートフォンをいじることに没頭するそぶりをみせて関わりを避けた。同級生の知り合いは、サークル内にいることにはいるが、優先順位でいうとかれらにとって私は五番目か六番目で、これも私と積極的に関わる理由ではなかった。好きなもの同士で酒を飲んで談笑し合うほうが面白いに決まっている。私はあちこちで恋愛やバンドの話題で固まった群れを見るともなしに見て、またスマートフォンに視線をうつし、コーラを飲んだ。舌が重い。味がしない。
 二年生ライブが始まったのは十三時ごろで、私がここへ入ったのは十五時すぎだった。同級生のバンドがメインのライブだったからほんらいは開始時刻には到着していなければならなかったが、私は一人だけバンドを組んでいなかったし、同級生たちに親しみも薄かったから参加する意欲が湧かなかった。
 さんざん迷ったあげく行くことにした。ライブハウスに入ると折良くバンド転換による休憩時間で同級生の部員と鉢合わせた。友人たちは私の名前を覚えていて、「久しぶり」と私に声をかけた。私はあいまいな返事をして壁にもたれかかった。かれらが何を思っているか私にはよくわからなかった。
 だれが呼びかけるでもなくエントランスの人間は徐々にフロアへ消えていった。私はなるべく平気を装い、少しおくれてフロアへ入った。暗闇で目立つのでスマートフォンをすぐにしまった。
 すぐに次のバンドの演奏が始まった。私はフロアの中央後方に位置を占めてだれも寄りつくことのないようにと願った。曲が派手に展開せず、照明がおさえられている間は人目もまばらなので安心できるが、サビに入って明転すると自分の居場所をハッキリと確認させられて苦痛だった。人垣がないとなればもっと始末に悪い。私はパーカーのポケットに両手を突っ込み、やや猫背気味の姿勢で演奏を見ていた。サークルでたがいに仲良しな人びとは前方のステージ側に詰め、(私は初めて見たが、その筋では知られているらしい踊りを)踊っていた。
 最初の二、三曲は順調に進んだ。ときどき居酒屋や遊園地でのエピソードを盛り込んだMCが挟まって、かれらは笑った。私は手汗を何度も袖でぬぐい、唾液をしきりに飲み込みながらステージを見守っていた。ところが三回目の長いMCのあと演奏が再開されるころにフロアの重いドアが開かれ、へべれけになった三年生が群れをなしてあらわれた。私はその人たちと一度話したことがあるが、そのたった一度きりだった。名前を聞かれなかったから私のことをもう覚えていないかもしれない。
 その人たちは私と壁に挟まれた一メートルの隙間を揺れていた。私の左隣には同じく三、四年生がビール缶を手に群れていたから、ちょうどその人たちの視線が交差し合う点に私が位置することになり、それは私の汗腺をいっそう刺激した。
「お前、何してんの」
 男性の三年生が私をよけるように身をねじって訊ねかけた。依然演奏は続いていた。私は位置を変えるべきか迷ったが、前に出ることを考えると億劫になり、けっきょく足を動かせなかった。耳鳴りがして感覚に身が入らなかった。歌詞も楽器の聞き分けもなにもできなかった。
「カナなあここ来る前に三本も飲んでさあもう何言っとるかわからん」
 連れ合いの女性が答えた。「カナ」は懇意にしているらしい後輩と前方の人びとと同じ踊りを踊っていた。大きく左右に揺れるので私の腕にかれらの身体がよくぶつかった。私はここではないどこかへ逃げたかったが、フロアが狭いため動きようもなく、それにあちこちにすでに「群れ」ができあがっているためそれを避けて立つのはかなり難儀だった。かといって出口付近にも群れが座り込んでおりここを離れることもかなわない。私はじっと耐えることにした。あと数曲の辛抱だった。
 この苦痛には見覚えがあった。それは四か月ほど前、昨年の年末に行なわれた卒業ライブだった。そこで三年生はサークル活動を終える手筈となっていた。ほとんど面識もないままかれらと別れることに私は抵抗がなかった。そんなものだろうと思っていた。
 当日、私は他の部員と同じように十三時には会場に到着した。しかしみんなが自主的に取り組んでいた仕事(差し入れの荷分けや色紙への寄せ書きなど)が私には割り振られなかった。下手に動くと怒られると考えた私は、狭い会場の一隅でしばらくのあいだ立つことしかできなかった。つらくなるとトイレの個室に逃げて時間を過ごした。
 肝心の卒業ライブが始まってからも私はだれとも関わりがなかった。前述のとおり親しくしていた人はいたが、そこでは私は一人だった。会場には一年生も詰めていたが、かれらのほうが私の同級生とよほど仲が良かった。
 ライブが終わると二年生から三年生へプレゼントを手渡す流れになった。私はステージに上がって担当の先輩にプレゼントを手渡し、あまつさえ他の人たちにならって抱擁までしてみせた。集合写真にも写った。そのとき純粋に、私はここの人びとからは求められてはいないだろうと思った。帰りにみんながバラバラに分かれて飲み屋に連れ立つ中、私は電車で自宅の最寄り駅まで帰り、イートインスペースが閉まっていたためコンビニ近くの公園で弁当を食べた。その日はみょうに気温が高かったことを覚えている。
 これは決して明るくない経験だった。私はこうなった原因がどこにあるのか特定しようとしたが、徒労だった。原因は私にしかなかった。二の足を踏むだけの言い訳ばかり募らせて、他人との関係をあらためることに一度もふみきらなかった、これは私の落ち度である。かれらと同じテーブルを囲めば……酒が入れば……そうすればなにか変わっただろう。しかし私は酒には誘われなかった。もちろんこれにもいくらか言い訳がある。第一に私は肌が弱く、酒が入るとひどく肌荒れしてしまう。酔ってしまえばふだん言えないこともはずみがついて言えるからさぞ楽だろうと羨ましかった。第二に仲が良くない人間と飲んでもなにも楽しくないだろうと思ったからだった。それに日頃からなにひとつ交流の接点をもたない者同士が酒を酌み交わしたところで会話に花が咲くとは信じられない。どうせさんざん繰り返された単語しか行き来されない。それなら行かないほうがマシだった。
「次で最後の曲です! みなさん知っていると思うので一緒に踊ってくれたらうれしいです!」
 やっと最後の曲が始まった。全身が汗で粘っていた。息が苦しい。私が親しくしていた(と私が考えていた)人たちは、私よりももっと親しい人たちと飲酒して楽しそうだった。場内のボルテージは高まっていた。なにもかも馬鹿げていた。
「カナ」の揺れは輪をかけてひどくなった。私のすぐ真後ろで彼女と仲良しの後輩が「ちょっと」「やばいですって」を交互に繰り返しながら彼女の介抱をしている。たまに私に肘がぶつかると彼は「あ、すみません」と言ってまた平常の口調に戻った。私と彼は一度話したことがあったが、今でも私のことを憶えているか怪しい。私はちょっとずつ立ち位置をずらしながら、しかし左端で群れている三、四年生たちと適切な距離を保たねばならないことを留意しつつ、左足にやや体重をかけすぎてしまい、あやうくよろけそうになった。
 みんなが踊っていた。簡単な踊りである。私もその動きにならおうとしたが、腕をちょっと上げたところでやめてしまった。もういまさら遅すぎた。曲の拍子に合わせて照明が赤、黄、オレンジにまたたいていた。私は立っているのがやっとだった。音楽はただ耳の外をふらふらするだけの塊かなにかであり、私抜きでも充分に成立するだけの強度があった。耳鳴りは苦痛であり私にここから出ることを促していた。
 演奏が終わった。まばらな拍手の中、ステージ上のメンバーがはけ、フロアが明るくなると転換のための中休みに入った。「カナ」は彼女の友達数人に腕を引かれてフロアから消えていった。私は真っ先に出るのも忍びなく、ある程度人が減ってからエントランスに戻ろうと思っていた。
 にわかに場内の盛り上がりがひときわ強くなった。どうも別件で集まっていた一年生がまとまって入場したらしい。たしかに彼らだけスーツでめかしこんで周囲と雰囲気を異にしていた。彼らは(学内サークル全般の)活動制限のためバンドとして動いてはいないが、もうすっかりサークルに馴染み、部内になくてはならない存在にまでなっていた。私は億劫な気分になった。トイレに通じる狭い道をちょうどかれらがその人垣で固めていたからである。私はようやくエントランスには出られたが行くあてを失い壁にもたれかかった。スマートフォンを取り出したが触るのにもいいかげん飽きていた。
 一人の男が私の前に立った。私と話すために来たのだろうと思って顔を上げる。知らない顔だった。がすぐに声でわかった。去年の二月に私が一度だけ組んだバンドのベーシストだった。そのときは金髪だったが髪色を黒に染め戻していたので気がつかなかったのだ。
「衣織(当サークルには親しくない人間も名前で呼ぶ習わしがあった)、今バンド組んでないだろ? よかったら俺と組まない?」
 私はすぐに「もちろん、全然」と答えた。その提案自体はほんとうにうれしかった。思い返してみても、私はきっとそのときは引き受けるつもりだったんだろうと思う。私はすぐに何のバンドのコピバンか訊ねた。彼の答えに私は困惑した。それは結成以来ずっと3ピースで活動している有名なバンドだった。順当にいけば私がギターボーカルになるところだが、彼いわくギターを別にもう一人すでに誘っているらしかった。つまりほんらい一本のギターを二人で分担してコピーしようという話だった。
「それはまた何で?」
「ボーカルが全部やるにはギターの負担がデカいんだよ。だから衣織に頼みたくて」
 その意見はもっともだった。このサークルの一員である以上私はその誘いに乗らない理由はなかった。しかしどうしても引っかからずにはいられない。なぜ私なのだろう? もちろんこんなものはただの邪推である。なにも考えず、黙ってバンドに参加すればいい。それでも疑問が振りきれなかった。なぜ私よりもっと親密な人間に持ちかけなかったのだろうか? 一度勘ぐれば止まることなしだ。彼は私を情けでバンドに引き入れようとしている。彼からすれば今日ここに来るまで私の存在など気にかけることがなかった。しかしライブ会場でだれとも絡みがない私の様子をうかがってさすがに気の毒に思ったにちがいない。だから私に声をかけたのだ。
 よくあることだが、軽音サークルにおいて、ベース、ドラム、キーボードに比べ、ギターは人余りがしやすいパートである。ギタリストが一バンドに二人ずつ在籍し、かつ複数のバンドを一人のドラマーでやりくりするなどざらにある話だった。私は当初ギター志望で入部したが、大学からようやく楽器を触る素人に誰がソロギターを頼むだろうか? そもそもが無茶だったのだ。あのとき私はそんなことを多少でも考えていただろうか?
 私はうなずいて答えた。
「そういうことね。わかった。つっても俺もそんなにうまくないけど大丈夫?」
「まあ大丈夫じゃない?」
 二人で笑いあった。彼はそれから友達にビール缶をもらいに行ってそのままフロアへ消えた。私のまわりは人であふれていた。あと五分もすると次のバンドが始まるはずだった。ここが私の場所でないことに依然変わりはなかった。はやく消えてしまいたかった。さいわい一年生の塊が溶けていたため私はトイレにまっすぐ向かって個室に入った。
 四つの親しい壁が私を囲んだ。私は足す用もなく便座に腰かけて時間が過ぎるのを待った。少しして個室のドアをがちゃつかせる音、舌打ち、遠のく足音が聞こえてきた。エントランスの笑い声も徐々にかすれていき、人びとがいっせいにフロアへ詰めていくのがわかった。次のバンドの演奏が始まった。私は帰ろうと思った。
 個室を出てエントランスに戻るとだれもいなかった。入口でドリンク代を徴収するスタッフもいまは裏手に回っていた。アルコールの空き缶とコップの飲み残しと吸い殻だけが空間を占めていた。私は入口の重い扉に体重をかけた。なぜか私は焦っていた。この場をだれかに見られることをおそれてでもいるかのように。
 突然、重かった扉が軽くなり、私は重心がぶれて身体をくの字に折り曲げてしまった。あわてて体勢を立て直す。そこに立っていたのは見覚えのある顔をした一年生だった。数日前に、二年生の下宿先で度数の強い酒をあおってへべれけになった彼の様子を写した動画がSNS上にアップされていたのだ(それはサークル内で「洗礼」と呼ばれていた)。その一件で彼は上級生と親しくなった。私とは関係がなかった。
 彼はなにも言わずに私をよけてエントランスへ入った。閉じられる扉が彼の後姿をせばめていくのを私は黙って見ていた。ふと、自分の肩に力が入りすぎているのに気がつき深呼吸してみると疲れが腹の底から湧き出てきた。私はやっぱり馬鹿げていると思い、地上に出る階段をのぼった。もう十七時ごろだったが日はまだ高かった。私は家に帰ってから二十一時ごろにサークルのSNSグループへ退部する旨書き残してグループを退会した。サークルの人たちから何件かメッセージが届いていたがすべて無視した。ほんとうに引き止めるつもりなら電話でもすればいい。私はなにもかもにうんざりしてしまい、おまけに眠れるだけの充分な疲れを獲得できなかったのもあって、その日は夜がしらけるまで、みじめな気分で布団に横になっていた。

 歳をとるごとに友達は減っていた。特にここ数年はいつも後悔してばかりだった。ほかの人たちと比べて私は姿勢を構えるのが遅く、一歩目を踏み出すのが遅く、二歩目を踏み出すのも遅かった。集合場所に着いたころにはみんな解散していた。はいつくばらねばならないときも私は身振りに躊躇して立ったままだった。はいつくばれ、とは誰も言わなかった。それが聞こえていたとしても私は一笑に付して耳を塞いだのだろう。あのときなぜ動かなかったか、自分がわからないことは多いが、では動かなければならないためしなどあっただろうか?
 サークルを抜けてから数日間、私はだれとも連絡をとらなかった。数少ない知り合いにも会わなかった。通学バスで揺れていても急カーブで他人がかぶさってきても私は一人だった。吊革をつかんでいると指先がしびれていつも痛かった。キャンパス間の往復中、私は行く人それぞれに目配せし、呪いをかけた、集団で群れる身長一七〇センチの男性の学生、連れ合う男女、そのほか楽しそうな人びとに。
 それは間違いなく危険な兆候だった。無気力感ゆえ、始めたばかりの飲食店のアルバイトもやめてしまった。どのコミュニティからも抜けた私のスマートフォンは鳴ることがなかった。私は自分を承認してくれる他者をじっと待っていた。しかし待つことにたいして慣れていなかった私はどこへ行こうにも身の振り方に戸惑い、つい最悪の方を選んでしまうのだった。それが最悪なうちはまだいい。最悪といっているうちはまだましだったからだ。
 私はその頃、この鬱的な虚脱感覚は、彼女を作って適度に性行為をすれば治るたぐいのものだと本気で信じていた。実際そのころの私がほんとうは何を求めていたのだか判然としない。他者を、あるいは他者との関係を、あるいは関係の内にある存在としての他者を求めていたのか、あるいは一人でいたかったのか……
 サークルに再入部することも考えた。本音すべてを打ち明ければ多少は私を構ってくれる人間もいるに違いないと。この考えは、そこまでして戻る価値がないと過去の経験から判断して棄却した。家とキャンパスを往復するだけの単調な日々が続いた。親には退部したことを言い出せなかった。死ぬまで言わないつもりだった。
 木曜日の就寝間際にスマートフォンが鳴った。サークルのある友人からだった。私をサークルに引き入れ、一緒にバンドを組んだよしみで特別仲良くする機会が多かった友人だった。「土曜に会えない?」とのメッセージだった。私はすぐに「わかった」と返した。予定などまったくなかった。久々に人と会うのでうきうきしていた。何の話をするのか楽しみだった。

 友人=クメタとはキャンパス近くの喫茶店で待ち合わせることになった。十四時ごろにクメタはあらわれた。トップスもボトムスも黒のそっけない格好だった。テーブル席についてお互い好きなものを注文した。もしかしてこれは気まずい状況なのではないかと思い至って今さら私は焦っていた。
「この前の俺のバンド見た?」
「え? ああ……」
 私は返答に窮した。私は彼のバンドがステージに上がる前に帰ってしまったからだ。こういう場合たいていは適当に誤魔化してきたが、いまさら、嘘をついたところで大して変わらないと思った。
「ごめん、帰ったのが五時くらいだから見てない」
「そっか」
 とだけ言うと運ばれていたコップに口をつけた。さほど気にしている様子はなかった。
 クメタはドラマーだった。そして私と同様サークルになじめていなかった。バンド練習のあと飲みに誘われても気後れがしていつも断ってしまうたちだった。大学からドラムを始めたが猛練習の末サークル内でもテクニックには秀でるようになった。サークルとバイト先以外に人と関わる場所をもたず、周囲からも何を考えているかわからないというので距離を置かれていた。しかしその実、本人から聞くかぎりでは、どちらの側から関わり合いを避けるようになったのか、いまいちはっきりしないところもあった。私はたんに気が合うのでクメタが好きだった。
「何でサークルやめたの。……俺が無理して入れたから?」
 食事が運ばれないうちからクメタはそう訊ねた。私は笑って水を飲んでなんでもない風をとりつくろい、話すことにした。
「べつに、クメタは悪くないよ。単純になじめなかっただけ。この前のライブも正直にいって疎外感がひどくてさ。あーここは俺の居場所じゃないんだなって。俺なんかがここにいてもしょうがないよなって」
 注文したカツサンドが運ばれてきた。さっそく私は口をつけた。適度に味がしてよかった。
「そうか。なら仕方ないよな。俺もなじめないし。ほら、この前もミヤザキが言ってたようにさ」
「ミヤザキがなんか言ってたっけ?」
「この前飲みに行ったときに……」
「ああはいはい……」
 ミヤザキはギターが上手で、クメタと仲が良く、サークルの異性のメンバーを自慰に使うのになんの抵抗もないような人間だった。以前、私とクメタが大学からの帰りに偶然彼と鉢合わせて飲みに行くことがあった。そこでミヤザキはサークル内の恋愛事情が私の想像以上にもつれ込んでいることを話した。かれらのSNS上への投稿ではなにもわからないが、どの男とどの女がつながり/分離しているか委細詳しく、少々熱を入れすぎた口調で彼は私たちに教えた。そのとき私は口も挟まずただ笑って受け流しただけだった。
「あれ聞いたとき衣織はどう思った?」
「どうって……べつに。勝手にやってくれって感じだよ」
「きたならしいとか思わなかった?」
「うーん……」
 どうでもよくない? と口をついて言ってしまいそうになるのをこらえる。私はクメタがそんな瑣末なことに固執する理由を知りたかった。考え方が似る自分の同志を探ろうとでもしているのだろうか? にしてはこの質問は露骨すぎた。それに私自身、自分が性的なものにどんな感情を差し向けるべきか、いまいち判断しかねるところがあった。
「ちょっとはあると思う。ふだん意識はしないけど、でもサークルをやめた遠因にもたぶんそれがあるだろうね。そういう場から早く逃れたいって気持ちがあったのは否定できない。そもそもそういうのは入部の段階で嗅ぎ分けとけって話なんだけどさ」
 私は自嘲気味に笑ってカツサンドの頬張りを再開した。クメタも注文したサンドイッチに手をつけていた。おたがい食事の間は無言になることが多かった。
「でも三年から……新しく……入り直すって……いうのもなあ……」
 私は食べる手を休み休み言った。既存のコミュニティを捨てた今、唯一可能性があるとすればゼミでの演習科目くらいだが、そちらもやはりすでにある程度パイは切り終えられており、それに不平をかこつのはお門違いもはなはだしかった。クメタからなにか言葉が出てくるのを私は待ったが、しばらく無言だった。彼の目的がわからなかった。私は人と話したくて、もっと言えば、人と話す自分を再帰的にたしかめたくてここへ来た。クメタはどうして私を呼んだのだろう? 早くしゃべってほしい。もうカツサンドもたいらげてしまいそうだ。
「衣織」
 クメタは両手をサンドイッチから離してテーブルの上に組んだ。
「はい」
「かなり突然で悪いんだけどさ。いや、全然、もしよかったらでいいんだけど」
「え? うん」
「……いや、やっぱりやめとく。なんだか申し訳なくて」
「なんだよ。言えよ」
「衣織が傷つくかもしれない」
「どうでもいいって」
 クメタは唾を飲み込んで舌先で唇を湿らすとつっかえもせず一息に言ってしまった。
「俺と付き合ってくれない?」

 それ以上のことがあまり記憶にない。聞き違いかと思った。訊き返した。そういう意味? 頷き。どうもそういう意味らしかった。保留させてほしいと言った。食欲が断ち切られてカツサンドは残した。帰りに書店に寄って本を何冊か買う予定だったがそれもやめて自宅に帰った。動悸がひどかった。血が身体中めぐりにめぐって頭がガンガンした。帰宅途中階段で転びかけて軽く捻挫して痛かった。
 なんにせよ私の人生ではじめての告白だった。まず単純に言うならそのとき私はかなり嬉しかったのだと思う。自分の圏内にずかずか他者が入り込んでくる逆説的な喜び、とでもいおうか? いやそれ以前の話だ。そもそも私は大学に入ってからというものまともに人と関わったことがない。高校の頃友達は多かったはずだが、なぜかみんな卒業後、私と連絡を取り合わなくなった。ある程度一人でいることには慣れていたが他者が必要なことまでは否定できなかった。
 ただそれは本当の意味での他者なのだろうか? と折に触れて考える。私にとって都合のいい・自由に扱える手慰みを求めることといったいなにが違うのだろう? 私は十代を通してずっと自己肯定感が低かったが、自分のことは好きだった。自分を認めてくれる者があるなら尻尾を振ってその人にすがりついていた。そしてたいてい鬱陶しがられて向こうから関係が断たれるのだった。返事を留保したのもそれが原因だった。
 私のどこが好きなのか、とは訊かなかった。訊いたところでどうしようもなかった。オンラインで返事を伝えるのも申し訳なく思い、後日直接キャンパス内で会うよう伝えた。向こうは今学期いっぱいまで授業とバイトと楽器練習以外の所用がなく、たいていの日は暇とのことだった。私は講義の関係で二キャンパス間を行き来しなければならないため次に会えるのは木曜日だった。そのとき何を言うべきか結局私は考えずじまいだった。

 感染症は依然猖獗を極めていたが、キャンパスには不思議と人出があった。来る日も来る日も私は他者に囲繞されつづけた。慢性的な心のつらさはなかなか治らなかった。私はすぐにでも孤立が是認されるあの日々へ戻ってしまいたかった。なぜ関わりをもつわけでもない人びとと隣りあわなければいけないのだろう? 私がそこにいなくてはいけない理由とは何だろう? それとも、みんなそんなことはすっかり承知しているのだろうか?
 クメタは図書館前の中庭にいた。私はなるべく歩調を落として講義室から歩いてきたが会うことには会うのだった。クメタは髪を短くしていた。そのことに言及すべきか迷ってやめた。
 空いていたベンチに並んで座り、向こうからなにか言葉が出てくるのを待った。向こうもそのつもりらしかった。しばらく無言で私たちは気まずかった。
「まあ……、なんていうか、その……」口火を切ったのは私だった。「俺としてはね、そういう方向でいっても全然いいっていうか、いや、いいっていうのはクメタが、じゃなくて俺が、ってことなんだけど」
 自分でも何を言っているのだかはっきりしない。クメタも私の発言の真意を汲みかねている様子である。また返答を延期させてほしいとはあまりに酷なので言えず、かといって白か黒かこの場で言い渡さなければならないというのも酷な話だった。どう転んでもだれも幸せにならないだろうなとぼんやり考える。そんなことばかりだ。
「これからべつになんか変わるってわけでもそりゃないとは思うし、俺もそりゃクメタの喜んでるところが見たいし、どっちもいい気分になれるならそっちを選んだほうがいいわけでさ」
「つまりオーケーってこと?」
 ふとクメタの様子をうかがった。声音からは思いもつかないほど泣きそうな顔をしていた。全世界から拒絶されたような表情だった。
 私はすぐに言い繕った。
「うん……そうだね、うん、オーケー。俺たち付き合おう。俺もよくわかんない、自分が何したいのか。クメタと付き合っていくうちになんか分かる気がする。こんな言い方しかできないけど……」
 クメタの顔面の皺がだんだん緩んでいった。それは破顔を意味しなかった。悲しんでいないならそれで充分だった。
 その後、適当に世間話を交わしながらこれからどうしようと私は考えていた。クメタの身体に触らなければならないそのときがいずれ来てしまったら、私は何をするのだろう。求めなければいけないのだろうか? 私はほんとうにそれを望んでするのだろうか? 答はなかった。
 私たちはそれぞれ帰路について帰った。別れの言葉はとくになかった。

 私はいまだに足下を見つめていた。足下の、踏みしめた土の硬さがしっくりこない違和感。思うに私は、その違和感を表明しなければならない時期を逸してしまったのかもしれない。もう遅すぎたのだ。周囲は私を、金を稼ぐ/他者と連結する/遺伝子を残すことを欲望する主体だとみなし、またそうあるべきだと教え、諭す。私が放り込まれるその空間が、誰・何のためにどのように設計されているか、わかるのはいつもあとになってからだ。みんなそうなのだろう。問題はわからずとも振る舞えて「しまえる」点にあった。だからこそそこで立ち止まる、ためらうことは問題外なのかもしれなかった。
 私は自分がどうしたいのかがわからない。友達がほしいのか、恋人がほしいのか、他者との連結を望むのか、あるいはすべて投げ打って自閉したいのか。クメタは何を望むのだろうか? 決まっている。したいからするだけのことだ。しかし……
 私はいつもの癖で飽きもせずウダウダ悩み続けていた。早くやれば済む話じゃないか。それはそう。どうせお前は他者を手に入れられない言い訳を手に入れない選択としてごまかしているだけだ。それもそうかもしれない。でなければ憎悪にみちた私の視線が説明できない。説明しえたとしてどうしようもない気もするが。
 その日の晩、クメタからメッセージが来た。「何したい?」というそっけないものだった。何がしたいかわからない、の一本通しも、ただの独り言と変わらない気がして、なんとなく恋人らしい行為を種々、挙げてみた。挙げてみて、なぜ私がその質問に答える側なのか、わからなくなった。
「急になるけど、今週の日曜でもいい?」
「何が?」
 メッセージはすぐには返ってこなかった。しばらくしてスマートフォンが鳴った。
「デート」

 最初のデートは近所の動物園と相成った。当日は雨だった。私は駅の出口がわからず集合時間に遅れた。手をつなぎたいと言ったのでつないだ。クメタの指はドラムスティックの握りすぎでいくつかマメができていて固かった。彼の指が太かったのか組み合わせるのは向こうからなんとなく諦められた。
 降雨のせいか動物園は客入りが悪かった。ひとまず園内を一周したが、クメタは特に珍しい動物を目の当たりにしても大した感興を覚えなかった。私のほうも動物に興味があるわけでは決してなかった。それになによりこの雨である。私は積極的に話題を振った。そのたびにクメタは返答を濁した。彼が何を求めているのかわからなかった。そのうえ彼と歩調が合わず、何度も肩がぶつかったり、おたがいの行き先を踏み間違えたりした。私たちは絶望的なまでに他人と歩き慣れていないことがわかった。私は胃の奥が痛かった。つないだ手は向こうから解かれてしまった。私は怖くてそのわけを問いただせなかった。園内はなまぐさかった。それぐらいのことしか記憶にない。
 十五時を過ぎたころには雨脚も途絶えてきた。私たちは動物園を出た。間違っても「楽しい」とは言えなかった。
 その日はほかに目当てもなくそれで解散することになった。集合場所だった駅前でクメタと別れた。
 そのときふと覚えたいやな予感は的中してしまった。私たちは同じ私鉄の同じ路線を使っていたのだ。日曜日なのにホームには人がまばらだった。クメタは私から二十メートル離れたところに立っていた。向こうは私に気づいていたか、それとも気づかないふりをしていたのか。二人は別々の車両に乗った。クメタから「今日はありがとう」というメッセージが送られたとき、私はクメタとの邂逅をおそれて先頭車両へ移動しているところだった。

 私たちは一週間に一度、どちらから言い出すともなく集まってそれらしいことをやってみたが、大した盛り上がりもなく解散することが常だった。自動車免許を持っていた私が実家の自動車を借りて遠出でもしようかと誘いかけてみたが、そんな面倒をわずらわせることはしたくないと断られた。そんな二人の移動圏内はごく限られたものだった。
 クメタは楽しいそぶりをあまり見せなかった。私が並んで歩くことを、おそらく彼は当然のことだと考えていたのだろうが、それが私にとって権利なのか義務なのか判別しづらかった。クメタはあまり笑わなかった。クメタは私の理解を拒んでいるような気がした。映画を見に行っても「面白かった」としか言わなかった。私はクメタに苛立っていたのかもしれない。それをひた隠しにしてまで彼と連れ添う必要があるのか、私にはわからなかった。
 これでは週末に友達と遊ぶのと同じだと思った。あんがい私はその関係を望んでいるのかもしれなかったし、べつにクメタと恋仲でいる必要も感じなかったかもしれない(クメタ自身、口にするのが恥ずかしいのか私たちの関係に直接言及することはなかった)。それでも私はクメタが好きだったし、彼といるとやっぱり気分が良かった。そのことは疑えなかった。
 ただ一方で、もうこれ以上彼と深く接触する意味が見出せなかった。クメタは私とキスをしたいのだろうか? したいはずだ。愛の交歓なのだからしたいに決まっている。応じられたら、私もすると思う。しかしそれまでだ。それでクメタと長く続くとは思わない。もしかして私のこの考え方が、クメタの気持ちを損害しているのかもしれなかった。料金はすべて割り勘で済ませ、おたがいに負債を作らなかったため、ある意味ではすぐにご破算にしてしまえる関係だった。明日にでも私はクメタからの接触をすべて遮断して一人で生きていける。しかし私は足先の白線を超える気にはとうていなれないのだった。

「キスしないの?」
 私の要望で訪れた美術館の帰り、前を歩くクメタの背中に私はそう投げかけた。
 クメタは面食らった様子だった。
 すぐにあわてふためきながら、
「え? なんで、急に」
「だからキスだよ。クメタはしたくないの?」
 返事が返ってくるまで数秒沈黙があった。
「したい」
「じゃあしよう。きょう家上がっても大丈夫?」
「あ、じゃあさ」
 じゃあ? じゃあってなんだ? と私は言おうとしたが、
「もうほら、一緒にやっちゃおう」
「は?」
「いや、いろいろとさ」
 言っているうちにクメタは真っ赤になっていた。はじめて見るクメタの顔だった。私はすこし安心してしまった。軌道修正のしようがないとあきらめたかクメタは口をつぐんで足の回転を早めた。そのしぐさも私には愛おしかった。
 今晩クメタの実家には両親がいるというので私たちはホテルを探すことにした。友達の家で寝泊まりすると親に伝えた。クメタは早足でスマートフォンとにらめっこしながらここじゃないこっちも違うと私を先導していた。どこへ行くのだろうと私は思った。もちろん決まっている。しかし想像がつかなかった。どうしてもそこへ行かなくてはならないのか、私たちはそこへ行くべき人間たちなのか?
 何度も道を折れ、住宅街を抜けて、十分もしないうちに私たちはくだんのホテルに到着した。見たかぎりではただのビジネスホテルと大差なかった。入口は手動式の重い扉だった。私は体重をかけて扉を開こうとしたが、クメタが手伝ってくれたので大した苦労もかけずに済んだ。薄暗いエントランスでチェックインして部屋へ移動する。クメタが小銭しかないと言うので私が全額支払わねばならなかった。
 エレベーター内で私たちには会話がなかった。おたがいにいつになく真面目な顔をしていた。こんなことは馬鹿げていると思った。一揺れして扉が開いた。クメタが先に出た。廊下は真っ暗だった。私の膝頭は震えていたかもしれなかった。
 部屋に入る。電灯をつけて荷物を下ろす。さほど広くない。クメタはあちこち歩き回って結局ベッドの端に腰を下ろした。「いいよ、先に風呂入って」とクメタは言った。そこはシャワー浴びて、だろ、とも言えず、ありがとう、とだけ返してユニットバスに入った。熱湯になかなか切り替わらず苛立った。洗う箇所がとくに見当たらず五分でシャワーを止めてしまった。下着だけつけてシャワーを空けたとクメタに伝えた。
 私はクメタのようにベッドの端に座って彼を待った。クメタはなかなか上がってこなかった。心臓がずっと鳴っていた。部屋は適温が保たれていた。私は私が恨んでいた人間がするようなことをこれからするのだと思った。それで私はどうなってしまうのだろうと思った。手に入れ損ね続けていたものをようやく手に入れてしまったら、私はどうするのだろう。私はクメタのことではなく自分のことばかり考えていた。クメタは大事な人間で、大切にしたいが、私は私自身の瑣末な感傷を捨てきれなかった。他者とどうすることも私が自由にあつかえる領域にあるとずっと考えていた。
 湯滴の弾ける音がやんだ。ふと気づいて、あわてて照明を暗くした。クメタが浴室から姿を現した。日焼けのないクメタの全身の白が薄い闇に映えていた。目の奥がちかちかする。クメタはまともに目を上げずにベッドに座った。私たちのあいだには言葉がなかった。ふと自分のスマートフォンをマナーモードに切り替えていたか不安になったが、どうでもよかった。私はクメタに向き直った。ふだん意識しないせいもあるのかクメタの身体が大きく見えた。
 合図もなく行為が始まろうとしていた。クメタは私の腰に腕を回した。彼の腕が熱くて身体が跳ねてしまった。途端にクメタの唇がぶつかったと思うと口をこじあけるように舌がねじ込まれた。気持ちが悪くて喉奥が引きつった。異変に気づいてクメタがすぐに唇をはなす。何度か咳が漏れた。沈痛な面持ち。
「大丈夫?」
「大丈夫。ごめん……続けよう」
 行為が再開された。舌は生暖かった。人間の体温もこれぐらいなのだろうと思った。行為は長い間つづいた。ずっと吐き気がおさまらなかった。なぜこの行為が愛のある行為とされているのか次第に理解できなくなり、あとにはただ苦痛だけが残った。クメタはもう一度、私の様子を見かねて行為を中断した。喉元のむずがゆさをなんとか飲み込もうとして失敗し、私は嘔吐を抑止するための咳払いをしばらく続けた。クメタの顔を覗き込めなかった。私は彼の好意を無下にしてしまったことに自責の念が絶えなかった。自分の身体の主張にいっさい手が打てないことがやるせない。そうあるのだから仕方がないでしょう、と内側から声がする。
「衣織……、」
 クメタがなにか言おうとして口をつぐんだ。なにも言ってほしくないと思い、言うなら最後まで言ってほしいと思った。私は目尻に溜まった涙をぬぐってようやくクメタに向き直った。眉が垂れ下がっていた。半開きの口が闇に輪郭を失っていた。鼻の穴の膨らみから息を荒くしているのがわかった。私が心配だからそうしているのか、それともたんに興奮しているからなのか、私にはわからなかった。
「興奮してる?」
「え?」
「クメタ、俺で興奮してるの?」
 クメタは答えなかった。私はそこに気持ち悪い感じは特になかった。私だから/私でなくても/私のために興奮しているのであれば、しかたがないと思った。私はクメタの筋張ったあばらに手をあてた。骨の固さはあまり感じられない。指に挟まれた肉にも厚さが感じらない。クメタは無言だった。鼻息が私のつむじの先を這っていた。
「衣織」
 クメタが私の性器に手をあてた。下着ごしに他人の手で自分の性器がつかまれていることが不思議でならなかった。私と彼の目が合った。
「いい?」
 クメタのしたいことには察しがついていた。私は彼のなすがままにした。クメタは私の下着をずらして性器を露出させた。特に言葉もなく彼はそれを自分の口に含んだ。口内は生ぬるく、ときおり硬い歯が触れた。クメタは私の性器を口の中で転がし始めた。それはよくある行為のひとつだった。どこに目を向けるべきか迷い、私は丹念に性器を舐めるクメタの頭を注視していた。
 しばらくのあいだクメタは頑張っていた。しかし私の性器は甲斐もむなしくちぢんだままだった。諦めがついたのか、五分ほどしてクメタは性器から口をはなすとバスルームへ駆け込んだ。私は唾液で湿った自分の性器をながめていた。こんなものなのだろうと考えた。これ以上どうにもならないのだろう。
 戻ってきたクメタは依然表情が固かった。彼自身か、あるいは私に失望していた。クメタが持ってきてくれたティッシュで性器を拭いた。私はなにか一言、彼に伝える責任がある気がしてそれが何なのか探っていたが、さきにクメタが、
「ごめん。今日はもう寝よう」
 と、ベッド脇の照明を点けて言った。
「え、でも」
「衣織もしんどいでしょう? 仕方ないよ。無理強いしたのは俺のほうだから。また今度やり直そう。こんな急な感じじゃなくてさ」
 クメタは下着のままベッドに横になった。私は声を出せなかった。並んで眠るべきかわからなかった。私にその資格があるのか怪しかった。それでもクメタの背に張りつくように私は身を横たえた。入眠前の一時間、私は考えたくないさまざまなことを考えてしまって、いつものように気が滅入った。私だけ、クメタだけ、みんなが手に入れられるものを手に入れられない理由が知りたかった。あのサークルの人びとの姿が思い出された。かれらと私の違いは何だろう? 私がこだわりや未練もなく手放してしまった機会はいまどこにあるのだろう? 思考を放擲して私は押し黙ってしまいたかった。

 しばらく、クメタとは会わなかった。SNS上でもメッセージのやりとりはなかった。夏季休暇がすぐそこまで迫っていた。私は二度アルバイトの面接に行って二度とも落ちた。ことあるごとにキャンパス内でサークルの部員と鉢合わせて気まずかった。たいてい向こうはもう私を気にしていなかった。
 あの日のやり直しは二度と訪れなかった。八月最初の日、クメタは私を喫茶店に呼びつけて、一言謝り、もう別れたいと告げた。私に驚きはなかった。仕方がないと考えていた。沈痛にうつむいたクメタの睫毛を見ながら、私は運ばれたコーヒーを飲んだ。
「衣織には、申し訳ないことをしたと思う」
 人声のなかにクメタの細い声が混じった。クメタはなにも注文しなかった。
「無理してたのわかってたよ。俺といると何したらいいかわかんないでしょう? こんな人間がさ、勝手に付き合いたい、別れたい、とか言って……衣織、俺のことが嫌になったでしょう? 今日までありがとう。今後ももしかしたら会うかもしれないけど……」
 クメタはずっとしゃべっていたがちっとも聞く気がなかった。ウダウダ同じ言葉ばかり聞かされて私はうんざりしていた。クメタの、というより、もうだれの話も聞きたくなかった。私はときおりうなずいてみせたが、そのまま眠ってしまいそうなほど退屈していた。クメタの声は別人のように聞こえた。
「衣織聞いてる?」
「聞いてるよ」
「ならいいんだけど」
 それからまたまくしたてた。私は口を挟まないほうが賢明な気がしてなにも声にしなかった。ギターケースを抱えた男とハンドバッグの女が入店し、私たちの席の近くに案内された。男も女も口やかましくしゃべっていた。私が知っている人間かもしれないとおそれたがただの他人だった。ただの他人なのでどうでも勝手にしてほしかった。
 しばらく経って、満足したのかクメタは口を閉じた。終わってから私はちゃんと聞いておいたほうがよかったのかもしれないと不安になった。クメタは席を立ち、「これで払ってくれ」と千円札をテーブルに残して店を出た。その様子を私は目で追うこともなく、無為にあたりを見回して、すぐにテーブルに視線を返した。すぐとなりのテーブル席の男女は依然休みなくしゃべっていた。
 私はこの数か月のクメタとの付き合いについてある程度反省を加えるべきなのかもしれない。クメタが私に残してくれたものといえばそんなものか? でももう私はなんのためにか疲れており、これ以上身辺整理をつづけることにも飽き飽きしていた。私は自分が語り続けなければならないことにも疲れはじめていた。どこを向いても人がいるばかりで辟易していた。だれかと親しくなりたかったが、誰が仲良くしてくれても、きっと、その足は邪魔だからどかしてください、くらいは言ってしまうだろうと思った。次第に、何に苛立っているのかわからなくなり、こんな店内の喧騒に留まっては苦しいばかりだと気がついて、クメタの千円で私は清算して店を出た。もう夏で私はうっとうしかった。
 自宅へ戻るために電車に乗ってスマートフォンをながめていた。なんの気なしに部員がSNS上で運営している軽音サークルのアカウントの投稿を見て、私はびっくりした。きょうは他大学のサークルとの共同主催で野外ライブを開催する日だった。
 とするとクメタはなぜわざわざこの日を選んで私に会ったのだろう? ふといやな想像をしてしまった。もしかしてクメタは私と別れるのがショックでサークルをやめたのだろうか?
 ありうる話だった。もう昼の三時だった。会場は私の実家からさほど距離もない浜近くの公園だった。たしかめに行くべきだろうか? 電車はもう最寄り駅近くまで来ていた。いま決めなければならなかった。私は家を出る前にだれもいなかったことを思い出していた。
 電車が止まった。私は自宅まで走った。久しぶりに走った。家はずいぶん遠かった。着いたころには私は汗みずくだった。玄関に放っておかれた軽自動車の鍵をつかんで車に乗り込んだ。
 浜近くの公園は最寄りのモノレールの駅からでも徒歩で数十分かかる辺鄙な場所にあり、普通免許を所持したメンバーがレンタカーに楽器類と他の部員を詰めて会場へ向かうのが常だった。私はだれもいない車をずっと一人で運転していた。人を轢いてしまうのがこわくて、免許を取得してから私はしばらくハンドルを握っていなかった。家族は私を使えない人間だと責めた。私はいつもそうだった。
 下道を使ったので信号に何度も引っかかった。そのたびに発進に遅れてクラクションを鳴らされた。やはり時間がかかるのを承知で運賃の高いモノレールを選ぶべきだったのだろうか? 私はここ最近、どちらの扉を選んでも同じ一つの部屋にしか通じていないのではないかと気づき始めていた。どう転んでも同じ目が出るサイコロを振り続けているようなものだった。もう会場に着こうとしていた。途端に足がむずがゆくなって私は今すぐにでも車を駐車させてしまいたかった。
 公園近くのガラガラに空いたパーキングに、何度も切り返した末ようやく車を停めた。砂塵のような熱があたりに立ち込めていた。私は息をするのがやっとだった。公園から音漏れがしていた。何度も引き返そうかと足を止めたが、そのたびに私は諦めて会場へ向かうのだった。全身から汗が吹き出していた。
「すみません、サークルの方ですか?」
 入口を通りかけると名札を首からかけた一人の女性が私に声をかけた。Tシャツのデザインからして合同サークルの関係者らしかった。私は自分の身なりに目をやった。首元のよれた無地の白いTシャツにカーキの半ズボン。部外者であることは明白だった。そして私はサークル内部に無関係の他人がライブに参加できない可能性をちっとも考慮していなかった。
「すみません今入場制限をかけていて申し訳ないんですけどサークルの外から参加される方はおことわりしているんです」
 女性は早口で言った。私は首筋を掻きながらこう答えた。
「すみません、実は私、○△大学軽音サークルのメンバーで、つい先日入部したばかりなんです。入ってすぐライブに行くのもおこがましいと思ってはいたんですけど、どうしても見たくて……」
 入場係の女性は同じTシャツの男性と顔を見合わせた。男性は手元の紙束をパラパラ繰りながら、
「お名前うかがってもいいですか?」
「あ、たぶん名簿には載ってないと思います。本当についこの間入ったばかりなので……クメタさんに伝えてもらえるとたぶんわかると思います」
 男女はもう一度たがいに目配せをした。クメタの名前を聞いたことがないらしかった。あまり他大学との集まりにも顔を出していなかっただろうから当然だと私は思っていた。
「わかりました。ではこちらの名簿に名前を書いていただけますか? いちおう確認だけでもしておきたいので」
 私は男性から受け取った名簿に適当な偽名をしたためた。クメタの不在を確認したあとは用もないので私は帰るだけだった。私は男性に名簿を返して歩き始めた。
 浜風がときおりかすめるので涼しかった。私の知らない人たちばかりだった。公園の縁に沿って張られたテントで男女が休んでいた。黒いTシャツのかれらはやたらに白い私を不思議そうに遠巻きに見ていた。私は何周も公園を往復して何組も男女を見て回った。そしてかれらの間に私が混ざっていたらどうだろうと考えた。想像ができなかった。トイレに行って用を足した。
 気が進まないながら私はステージに足を向けた。おそらく他大学のサークルのバンドが演奏をしていた。みんなが同じ色をしているために人と人の判別がつかない。万が一にクメタがここに混じっていても気がつかないにちがいないと私は思った。私は人とすれちがうごとに視線を受けた。しかしここを去る気にはなぜかならなかった。人いきれに蒸れて息もままならない空間に、私は滞留しつづけていた。
 音楽はそこにあった。みなが肩を揺らし、踊っていた。私もかれらにならって左右に動いてみた。べつに音楽が私を賦活したわけでも、私が音楽を駆動したわけでもなかった。それらはたがいに排斥し合う独立した運動だった。ステージの奥にクメタの頭が見えたような気がした。クメタも踊ってくれたらいいと思う。だれかに肘がぶつかった。とっさに「すみません」と口に出して相手の顔に目をやった。私のいた軽音サークルの部長だった。彼はあっけにとられた表情で私をじっと見ていた。なにか言いたそうだったが私にはどうでもよかった。何でお前がここにいるの、と言われたところで私にはどうでもよかった。私はそこにいた。私の前で飛び跳ねていた男の汗が私の口に入った。群れの中で私は頭を振りながら一人だった。私はかれらを求めた。私はステージへむけて群れをかき分け始めた。幾人もの男女が私のぶつかる固い感触に声を上げて反応した。私は前へ前へ進み続けた。捲き上がる砂埃を吸い込んで喉がつっかえ眼球がひくついた。涙が止まらなかった。私は自分の頭の高さほどもある人波を人としてとらえるのをあきらめていた。事態を見かねて演奏が中断されたのか、五感が鈍ってしまったのか、音楽は鳴り止んでいた。ふと気づくと私のすぐ目の前にだれかの肘があった。そして後頭部に鈍痛があった。一瞬だった。私は重心をうしなって倒れた。白いTシャツに鼻血の赤が目立っていた。

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