レジが怖い話

 昔からレジが嫌いだった。特におつかいは嫌いだったし、家族と買い物に来たときでも会計の様子は後ろからずっと見守っていた。レジは怖い。バーコードがピッピッピと読み取られるたびに、私はその場から逃げ出したいような圧迫感にかられるのだった。

 レジは怖い。その理由は、「買い物」の持つ性質にある。買い物とは、自らの価値観の表明なのだ。

 物を買う、サービスを受ける、このとき我々はその「商品」に支払う金額以上のリターンが返ってくると期待をしている。それはつまり、物を買うとはその判断を表明しているということではないか。すなわち買い物という行為は自分の価値観という内面をまじまじと見つめられることと同義である。

 例えるならこれはレジの前で裸になっているようなものだ。しかも単に裸になるのではない。レジの上で裸になって、体のいたるところにピッピとレジの機械を当てられながら、その様子を観察されるような、そういう類のものである。よって、レジは怖いのだ。

 だがこのような文章を書く一方で、趣味に関わるものとか、欲しいものとか、そういうものは自分から進んで買いに行けるということにも気づく。

 これは何故だろう。

 それは、レジに自分の内面を覗かれるというリスクがリターンを上回っているから、と考えるのが一番無難そうだ。しかし、同時に、その買い物で提示する価値観が自分を形成している価値観、つまり自分という人間が買い物をしなくても日常生活でみせる価値観であるからでもあるのではないか。私はそう考えた。それはいわば、ボディビルダーが鍛え抜かれた体を見せつけるようなものである。

 好きな作家の画集や、小説や、ギターの弦を買うときに見せる私の内面は、私にとってある種の誇り、アイデンティティとなっているものである。それを見せるのに躊躇する理由もない。よってそのとき、私は、レジ・ボディビルダーになることができるのだ。

 そうだ。レジ・ボディビルダーになればいいのだ。自分の判断に自信を持つとき、人は一回りも二回りも強くなれる。そうしよう。湧き上がる衝動のままに、牛乳やプリンや牛乳プリンを購入しよう。
そして

レジ・ボディビルダーバトルを、開催しよう

 レジ・ボディビルダーバトルを開催する。ルールは簡単。出場者は店に行き、直接何かを買ってくる。そして、それを持って、決めポーズをとる。1番爽やかな人が勝ち。

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