新天地「Bremen」と今後の米津玄師
これは米津のアルバム「Bremen」の発表に当たっての彼へのインタビューの最初の部分である。
グリム童話「ブレーメンの音楽隊」は、私としては「Bad End」である。
なぜなら「ブレーメンに行こう」といいながら、彼らは「ブレーメン」にたどり着けなかったからだ。
「ブレーメン」とは、めざす動物たちにとって「ユートピア」だった。けれど「いいや、ここでいいか」というのがこの「ブレーメンの音楽隊」のストーリーである。
何かしらの教訓を感じるのが「グリム童話」だが、アルバムのタイトル「Bremen」が「何となく」浮かんだという米津の、この「何となく」というのが、いつも私たちが表現できない非常に「個人的」なものである。
このインタビュアーが言うには「新天地を目指す」のが「ブレーメンの音楽隊」だが、その途中で諦めた物語がこの「ブレーメンの音楽隊」であり、どことなく今の米津にリンクすると思うのは恐らく私だけかもしれない。
「それは廃墟になった街」「使わなくなった高速道路」「まだ生きている街の光」そして「それを背にして進んでいく動物たち」
いつだって壊そうと思えば簡単に壊せるのが「人間関係」だ。
ただ、ほんの少しでも「希望」があるならば、そこに賭けていきたい。
「いつもの暗い顔やチープな戯言」を見過ごしてきたのは、私としては米津自身であり、「見え透いた嘘も隠した本当も」米津自身が今まで見抜いてきた社会の中の欺瞞であろうと思う。
人生での大きな出来事は、その人を根本から変え得ることができるだろうか?人の死は、非常に大きなショックを与える場合と、ある種の救いをもたらす場合がある。恋人の死は人生が変わるほどにショックだ。けれど、人生80年などという言葉もあるが、80歳を越えてからの死は、どこか諦めと肩の荷が下りたような安堵感を周りに与えたりする。
「ボカロ」は、ボーカロイドという機械が歌う。デビューから14、5年経つとライブで語っていた米津。その間インターネットの世界も、またSNSというツールもかなり変化してきただろう。
ボカロ時代、姿かたちもも見えない米津に恋をした女性たちが、今もファンとして彼の側にいる。ライブ「脊髄がオパールになる頃」で、そんなファンを「1人も落としたくない」と語り、ちょっとした物議を醸しだしたのだが、今回の新曲「LADY」は、逆の意味でファンをざわつかせ不安にさせている。
それでは米津玄師に今までいわゆる「恋人」と呼べる人がいたのだろうか?
アルバム「Bremen」の最後の曲「Blue Jasmine」は、ある種の幸福な恋人同士を思わせる。
古いツイッターで恐縮だが、このツイートでは米津がはっきりと「昔の彼女」と言っている。
米津が若干20代前半の頃の詩「Blue Jasmine」と「LADY」を比べてみる時、どちらも幸福感が漂い「君以外に考えられないだけ」という素直で純粋な「恋愛」を感じさせる。
ただ一つの違いは、米津が今2度目の「過度期」に入っており、試行錯誤しながらも自分自身をさらけだしたい、そんな欲求を募らせているような楽曲「LADY」であり、右目を解禁してのビジュアルである。
米津の歌は私としてはだが、一見バラバラで適当に組みたてかのように見えるものも、実は綿密に計算されて出来上がったものであるような気がする。
それは「ヘンテコ」であり「不思議」なものだ。
芸能人のパーソナリティは、ある意味ないがしろにされることが多い。
そして「ブレーメンの音楽隊」は、ある種の「逃走劇」である。
「逃げ」に関しては、賛否両論あるものだ。「逃げていい」のか「悪いのか」は、時代を象徴する。
昭和時代、いやもしかしたらそれ以前もだが、「逃げ」は「悪」だった。逃げた先にあるものはなぜかいつも「破滅」だと子供たちは大人に言い聞かされてきたのだ。ところが平成に入ってからはむしろ「逃げ」が美徳でさえある。
困難など次から次へと槍のごとく人を襲うものだ。その全てが逃げられるものではないが、米津の言う「逃げ」はそれとはまた違ったものだと思う。
それはただの天邪鬼ではない、彼独特の「両義性」なのだ。
恋愛から結婚へ移行するとき、その全てが変わるのではないだろうか?
それは「恋人同士」なら二人っきりでいられても、「夫婦」になると双方の家族などしがらみが生まれる。
2人きりの時なら、「貶され」「奪われ」「笑われ」ても、時にそれは反対されるほど燃え上がるような効果と同じような効果をもたらしたりするのだが、一緒に暮らし、生計を共にすることで、相手の運命も自分自身にかかってくる。
「身内の不幸は我が不幸」というが、それは依存度が高いほどそうなる。
それを忘れて本気で傷つけあうならば、その結果はもう到底笑い合えない。
綺麗な言葉が羅列する。これを米津の純粋さと取るか、それともこれすらも何か暗号のような遊び心がばらまかれているのか?
「逃げていい」と言うが、人は案外逃げるのが下手だ。途中で起きた出来事によって、新天地「ブレーメン」に行くのをやめた動物たち。
多くの葛藤を抱えていたはずの動物たちが、「ここでいいか」というのを、身の程を知る「諦め」と取るか、目指す途中で挫折した中途半端ないくじなしと取るか、はたまた積極的にそこに留まることを選んだ潔さ、すなわち積極的な「逃げ」と取るか?
きっと何だか心がざわめくだろう。
優しい言葉が羅列する、「フローライト」と「LADY」と「Blue Jasmine」
「夢」と米津を見つめ、不意にはたと気づく。
見つめた時のみじめさは、あなただけのものではない。
それを知らせたくて、米津は現在ライブを行っている。
米津は今、自分自身の葛藤を、ファンと分け合いたいと思っている。
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