見出し画像

「カムパネルラ」から読み解く、あなたの世界

自分はザネリにすごく感情移入する部分があるんです。人間は犯した過ちによって、直接的、間接的に限らず、誰かの死の原因になり得る。自分のいろんな選択が、誰かの死につながっていると思うんです。

音楽ナタリーより



7月で終了した今回の米津のライブ「空想」は、この曲「カムパネルラ」から始まる。上記抜粋部分は、米津独特の、また米津らしい言葉である。

「カムパネルラ」は、宮沢賢治の最後の作品であり、未完だと言われている。「未完」でありながらも、多くの人に感動を与え、その姿を猫に変えて描いた「銀河鉄道の夜」は有名である。


そしてこの「空想」のライブの期間にオンエアされた菅田将暉主演の「銀河鉄道の父」は、宮沢賢治の半生を描いた映画であった。

米津の「カムパネルラ」の楽曲の後の菅田将暉主演の映画「銀河鉄道の父」は、菅田将暉と米津の縁が縁を結ぶ不思議さを感じた。

ここで一つ思うのは、作家の意図が、必ずしも読者に伝わるわけではないように、米津がこの「カムパネルラ」を、もしかしたら「銀河鉄道の夜」から取ったとは限らないのかもしれない。
そのくらい頭を柔らかくしてこの米津の楽曲「カムパネルラ」を、MVと共に考察したい。

アルバム制作の終盤になるまで、前のアルバムから約3年経っていることにまったく気付いていなくて。3年って、中学生が高校生になる、高校生が社会人や大学生になるぐらいの長い時間ですよね。この3年間で自分の目の前から通り過ぎた人たちがいったいどれくらいいたんだろうという気分になった。通り過ぎたというか、俺の音楽を好きでいてくれたのに、死んでしまった人がどれくらいいたんだろうって。自分はその人のことを知らないし、そういう存在があったのかどうかは定かじゃないですけど、きっとこのアルバムを聴く前にいなくなってしまった人がいると思ったんです。それは例えば「HUNTER×HUNTER」の最後を読む前に死んじゃったとか、「ONE PIECE」の結末を知る前に死んじゃったとか、それと近いものがある。そうなったときに、なんかものすごく自罰的な気分になって「自分は今まで何をやってきたんだろう」と思ったんですよね。

音楽ナタリーより


自分の描く物語を、心半ばして終わらなければならない時、どれほどの後悔と口惜しさが残るだろう。
「これを描き終えるまでは死ぬわけには行かない」と、物語の連載を抱えるならば、それはファンタジーとしての物語だとしても、現実的な「人生」という物語だとしても、何かしらのリスクを伴い、満足とは程遠い「後悔」、それは、「こうしておけば良かった、私のやり方はまずかったという「罪」を追う。

「カンパネルラ」の曲は、MVを見る限り、まるで「今際の際」のような世界観である。

明治時代の文豪家は、宮沢賢治だけではない。「山月記」で有名な中島敦、「人間失格」を描いた芥川龍之介、「君死にたまうことなかれ」と歌った与謝野晶子も明治生まれである。

「時代」の思想、今の思想、縛られた中でそれぞれの作家は戦ってきた。
米津はアーティストだが、思想家でもある。

思想家とは、自らのその言葉によって影響力を与える人だが、米津の場合、それに曲、自らが演じるMVが加わる。
昔の文豪家は、「言葉」だけで物語を書いた。そしてそこには必ず個人の思いと考え方があり、その時代への主張があった。

米津はどうだろう?言葉と曲と動画は、あたかも3Dをなしているかのようだが、実際には二次元とあまり変わらない。
「言葉」だけよりも現実的だが、その分「誤解」が生じやすい。
「言葉」だけの方が、ある意味、誤解を招きそうだと思うかもしれない。けれど考えて見て欲しい。作者への謎が多いほど、人は考えることが多くなり、わずかな手掛かりを得ようと、その文章に没頭するだろう。

地上とも呼べず、海とも呼べない、それが波打ち際だ。干潮があり満潮があり、時にそこは陸となり海となる。そしてただそこに佇む米津は、動けないでいるかのようだ。

同じく波打ち際に立つ楽曲に「orion」があるが、このタイトルが夜空に輝く「オリオン座」を想像させ、また曲の終わりが日の出のように見えるため、カムパネルラのような、陰湿さはない。

あの人の言う通り わたしの手は汚れてゆくのでしょう
追い風に翻り わたしはまだ生きてゆくでしょう
終わる日まで 寄り添うように 君を憶えていたい

カンパネルラ歌詞より



葬列のように波打ち際を歩いて行く姿は、何か強い悲しみと、深い後悔のようにも見える。この非常に強い後悔こそが私は「罪感」の正体だと思うのだ。人が取り戻せないものは、「死」である。すなわち「死」からの復活である。

米津の手に絡みつく金粉は、「金」という価値あるものではあるが、もう一方で「金(かね)」と言う世俗にまみれたどこか「汚い」ものである。
「生」にまとわりつく「お金」が、手段ではなく「命そのもの」のように扱われるようになったのはいつの日からだろう。

光を受け止めて 跳ね返り輝くクリスタル
君がつけた傷も 輝きのその一つ

カムパネルラ歌詞より


この歌はジョバンニではなく「ザネリ」だと言う米津。

カムパネルラはね、わかっているのにジョバンニをかわいそうに思って答えなかったんだ。(中略)帰ってきやしないさ、あいつのお父さんはね、北の海でラッコを密漁して監獄に入れられてるんだ。

銀河鉄道の夜ザネリのセリフより

ジョバンニ、ラッコの上着が来るよ。

銀河鉄道の夜ザネリのセリフより

「銀河鉄道の夜」の話の中でのザネリは、上記2つのセリフからわかるように、「いじめっ子」である。「いじめっ子」を加害者と取るなら、この物語の「いじめられっ子」は、カムパネルラではなく「ジョバンニ」である。

カムパネルラに対して歌っている曲ではあるんですけれど、歌っている人はジョバンニではなく、どちらかというとザネリというイメージです。ザネリはいじわるな子で、カムパネルラが死ぬ直接的な原因になってしまった人。

音楽ナタリーより

それならば米津の言う「どちらかというとザネリというイメージ」は、「加害者」という意味をなさない。それよりも最初に抜粋した「人間は犯した過ちによって、直接的、間接的に限らず、誰かの死の原因になり得る」という方ではないだろうか?

忘れられない思いと、忘れたい思いが重なる時、過ちなのか誤りなのかわからなくなる。ザネリの日頃の行いが、この日を境に逆転する。
恐らく今度は「お前のせいでカムパネルラは死んだんだ」という、汚名を背負って生きることになるだろう。

その時の心情は俗に言う「罰が当たった」という思いだ。この罪感は、時間と共に深く心に刻まれる。やがてそれは自分の一部、すなわちアイデンティティとなるのだ。それが米津の言う「光を受け止めて 跳ね返り輝くクリスタル 君がつけた傷も 輝きのその一つ」なのではないだろうか?

最後に、最初に「米津がこの「カムパネルラ」を、もしかしたら「銀河鉄道の夜」から取ったとは限らないのかもしれない。そのくらい頭を柔らかくして」と書いたが、実際この楽曲「カムパネルラ」を、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から離れて考えてみたい。

一見「葬列」のように見える人々は、よくよく見ると、それは喪服ではなく「留袖」のように見える。結婚した女性が着る着物は「留袖」なのだが、このMVの中の着物の人々は、まるで悲しみを背負った「葬列」のようだ。

電車に乗る女性は、それを不思議そうに見ている。もしもこれが恋人同士のお話だとするならば、この暗い光景からは、何かしらの「狂気」を感じる。
ではその「狂気」はどちらかというと、電車に乗る女の子ではなく、米津の方だろう。

終始フィルターがかかった画面から受ける印象は、私たちを物語に誘うかのように見えるが、先に酔われたら酔えないように、むしろ陶酔しきった米津にファンは怪しみ、逆に目が覚めてしまうのではないだろうか?

2人の唯一の結びつきは、米津の手にある金粉なのだが、女の子の方は、左目から流れ出たようになっている。MVの最後は、米津からカメラが引いて行くのだが、それは電車を見ているようで、実は今、実際MVを見ているあなたに注がれている。

「金」は価値あるものだが、先ほど書いた世俗にまみれたどこか汚いものとしての「金(かね)」もまた、価値あるものだろう。

泪のような金粉は、どこか弱さを醸し出し、米津の手に付く金粉は、彼の手の動きからも自由に操られるかのようだ。
ただ最初に静かに胸に手を当てる米津からは、その世界観の全てへの悲しみと佇まいを正すような雰囲気を感じる。

男の手は、働き手でもあり、女の泪は武器にもなるなどと言われたのは、もう恐らく「古い」話だろう。
互いの真顔は、どこか男と女の「駆け引き」を表し、引いていくことで逆に呼び止められると信じ、また追いかけないことで、呼び止めることができると考える、それが恋人たちの舞台であろう。

映像にフィルターをかけることで、「銀河鉄道の夜」と同じような映像美を演出したこのMVをどう見るか?
もしあなたがもう一度「カムパネルラ」を見る時、最後の米津の姿が、あなたを見つめているとしたら、あなたはどう感じるか?
そんな風に思って、楽曲「カムパネルラ」のMVを見て頂けたら幸いである。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?