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アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』須賀敦子訳(白水社)

この本、あの須賀敦子が訳しているし、まわりのいろんな人が勧めている本なので期待していたが、どんな中身なのかは全く知らないまま読み始めた。たぶん、エキゾチックなインドを旅する紀行文?それともインドで生まれた幻想の物語?

ということで読んでみたけれど、この本をひとことで表すのは難しい。確かにインドを旅する話ではあるのだ。貧しい宿に泊まったり、それほど貧しくないホテルに泊まったり、バスで移動したり、タクシーにぼられたり。インドのエキゾティシズムもあふれんばかりだ。ボンベイの病院に収容されている人々。駅でいきなり哲学的な質問をしてきた見知らぬインド人。バスの途中停車で主人公を占う奇形の子。

主人公は古い文献を調査する仕事をしているが、それとは別に誰かを探している。その男の行き先をあちこちで尋ねるが、なかなか会えない。意味ありげなメモや男の恋人や知人などは登場するのだが。そもそも主人公がなぜこの男を捜しているのかもよくわからない。ボンベイ、マドラス、ゴアの話がいちおう3つの章に分けられてはいるのだが、中身は断章がつながっていて、いきなり場面が切り替わったりする。読者は旅程も知らされずに主人公のあとをただついていく、自信のない旅行者のようだ。神智学協会やポルトガル詩人ペソアの話が急に出るのも面食らった。

全編たっぷりと幻想的な雰囲気があるのだが、そこに奇妙に現実的な描写がときどき入るのがおかしい。最後のレストランでのフランス人女性との会話も、こんな場面でありそうな展開にはまるでならなくて、クスッと笑ってしまう。あるホテルではフロントの太った男がいつ見ても電話でしゃべっていたり。(そういうフロントもいそうな気がする。)ポルトガル詩人ペソアの臨終の言葉は何だったか知ってますか?「そこにある眼鏡を取ってくれ」です。なんて会話が入ったりする。

現実的なユーモアと幻想的なエキゾティシズムが予想外のまじりかたをしているのだ。作者がインドという素材で楽しく遊んでいる気がする。けっきょく、主人公が探している男は<もうひとりの自分>ということなのだが、そういう話にありがちな暗さはない。解説で訳者は「インドの深層とも言うべき事物や人物」が体験されると言うが、果たしてそうだろうか。「インドの深層」だと読者に感じさせるのは文学的効果であって、そこまで深刻に考えなくても、作者の文学のたわむれに素直に巻き込まれながら、インドを楽しめばいいように思う。インドで友人が失踪した?インドは失踪するためにある国なんですよ。

筋らしい筋もないこの本、たとえば3年後にもう一度読んでも同じように楽しめそうだ。読むのはやっぱり蒸し暑い夏の夜が良さそう。

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