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目には見えない綺麗さ。

こんな諺がある。
好奇心は猫をも殺す。
過剰な好奇心は身を滅ぼす、という他人への戒め。
でも私はこれを自戒に使おう
と思う。


切欠は些細なことから始まった。
とある人物の言っていることが二転三転する、その時々でご都合主義で誤魔化される(ように感じる)、
まるで、最初の話が無かったかのようになる。

所謂、設定無視?

そんな猜疑心が生まれたのは何時からだったか。

猜疑心の塊に成り果てた私は、矛盾を見つけては、これは可笑しい、あれは可笑しい。
そんな事を思っていた。

そんな話を相談した時に、
『もう放っておいて好きにやらせたら良い』と言ってくれた人がいた。

私は一瞬、意味が理解できなかった。
どうして?懐疑心で凝り固まった私には謎だった。

その人は言った。

好意的に見れないもの、懐疑的なもの。
それに関わるということは、
そのものに好意的になりたいのか?と。
懐疑的なことを解明したい、論破したい。
そうなるのが人間。
だけどそれは自分自身を貶めることにならない?

なんだか、ハッとした。

その人は続ける。

相手の言動が捉えられないのなら。
捉え方や反応が気に食わない場合は
『距離置こう』
それ以上でも以下でもない。
はいはいとスルー出来ないことは
避けて通るが勝ち。
楽しい、嬉しい、幸せ、そんなプラスの感情を拾っていく方が精神衛生上も良くなると思うよ。

そう言われてストンと何かが落ちた。

避けるが勝ち。
まるっと投げられるバワーがない間は、関わるのがしんどい所にわざわざ飛び込む必要はない。
猜疑心を持ってしまって、怖いもの見たさ、暴きたい欲はあるのかもしれないけれど、そんな事しても何もならない。

そして、続けて言われた言葉で私は陥落した。

考えてたら、意地のループに嵌らない?
意地悪になってしまうのは嫌じゃない?
それなら、好意的な所に100%のエネルギーを使った方が余程いいと思う。
何より意地のループに嵌るのは美しくない。
どうせなら可愛く美しくなっていきたいよね

そう言われて、猜疑心、懐疑心を持って人と関わっているのは、なんだかとてつもなく嫌なことをしている気分になった。
自分のライフ(精神力)を削ってまでも助けたくて堪らないから関わっている訳では無いことに漸く気付けた。

好奇心は猫をも殺す。
私は猫が大事なので、引き返すことにした。

言われたとおり、自分の好きな人や大切の人たちに今の自分の100%を向ける方が余程身になるし、私も嬉しい。

そうやって、『目には見えない』可愛さや美しさを磨いていく方が、自分の為にもなると思えた。

そんな夜の話。

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