阪神淡路大震災を思う、25年目。

25年前。小学2年生だった私は、朝起きて、遠い町で地震が起きたことをテレビで知りました。高速道路が倒れ、火災が広がり、幼いながらに、とんでもないことが起きた、という印象を持ったことを覚えています。


数々の衝撃的な映像があった中で、特にはっきりと覚えているテレビのシーンが2つ。

1つ目は、アナウンサーが、パジャマやジャージなど着の身着のまま、情報を伝えていたこと。普段は着飾った人たちも被災者になること、そうでもしないと伝わらないという、事の重大さをより強く感じました。

もう1つは、グレーの背景に白黒の文字で、亡くなった方の住所と名前と年齢が書かれ、淡々と読み上げられていたこと。恐ろしいほどに延々と続くその画面に、なぜか見入ってしまったことをとても覚えています。

余談にはなりますが、そうしたシーンを見て、「遠くの町で起きたことがこんなにも力強く伝わってくるテレビってすごい」と思ったのが、テレビ局で働きたい、と初めて思った瞬間でした。


2010年、テレビ局に入社して初めて迎えた1.17は、震災15年にあたる年でした。当時、大阪局や関西の近隣局には長年取材を続けてきたディレクターが多くいて、その日を迎える前から、勉強会が開かれていました。
その時のテーマは正確ではありませんが、
「震災を知らない私たちが取材することとは」という話でした。

当時、最初に感じたのは、15年も経ったのに様々な課題があることを知らなさ過ぎた、ということでした。
住まい、町の再建、コミュニティの形成、災害時の後遺症に苦しむ人など…神奈川で育ってきた私は、とっくにすべて復興して、問題は終わっていると思っていたのです。

震災を知らない私が取材する、ということの難しさは、神戸に実際に行っても感じました。
一見すると、新しいきれいな街。
それはもちろん、1995年1月17日以降に建替えられているからなんです。
その前の様子を想像することは、本当に難しいことでした。


1.17当日。
前日から準備をして、大正筋商店街と東遊園地からの中継を担当することになっていました。
一緒に組んだ先輩ディレクターは大阪出身で、阪神大震災の直後に入社して以来、ずっと取材をしてきた方。
準備からの丸2日、とにかくいろんなことを伝えてくれました。
心構え、この15年どう変わってきたのか、どう変わらないのか。
本当に大切な日になりました。

この経験が、
私がこのあと起きる数々の災害にどう向き合うかを形作ってくれました。


最近、東日本大震災の取材を会社の後輩とした際に、2011年当時中学生だったという新人の子に出会いました。
私もずっと続けて取材しているわけではないけど、10年前に先輩が教えてくれたように、次の世代につなげていくことができたらいいなぁと思います。


これもまた、別の先輩が教えてくれた話。
長年神戸で取材をしてきた先輩は、1.17の朝、
その時全国どこに住んでいても、必ず神戸に駆け付けるそうです。
それは、自分にとってその日は、「忘れないでいる日」だから、と。

どんな災害も、忘れたころにやってきて、いろんなことが報道されて、
時がたって、知らない世代が増えて、風化されて、ということが続いてしまいます。

知っている人は「思い出すこと」を、知らない人は「思いをはせる」ことが次の災害について少し考えることにもなるのかなと思っています。


今日は、そんな25年目の日。
皆さんも少しだけ、思い出したり、思いをはせてみてください。

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