エンドロール論

映画のエンドロールをみんな最後まで見るだろうか?

私は見ない。

余韻に浸る時間だってのに、なにいそいそ立ち上がって帰ってんだ?お前ら本当に映画見たのか?

とか言ってる人もいるだろう。

映画の余韻ってだって帰りのエスカレーターとかでできません?

映画館を出たら魔法が覚めてしまって余韻なんてないんだったら、それまでの映画だったんだ。だいたい、「良い映画」って言うのは私の中で

”何かを猛烈に摂取したくなるか否か”

という基準で見ている。何かを湧きたててくれるのは、良い作品という判断で間違っていないだろう。(だいたい、映画館ってのは禁欲的すぎるよね。)

例えば猛烈にワインが飲みたくなる、猛烈にタバコが吸いたくなる、猛烈に肉がたべたくなる.....エンドロールが始まるその刹那、

「これ以上我慢できんっっ!!さっっ肉食いに行くよ?」と勇ましく立ち上がれたらそれはいい映画だったんだと思う。

余韻は勝手に家でやってくれ。

そんなことを言ってる私だが、実は高校生くらいまではエンドロールを最後まで見る派だった。そっちのほうが粋だ。と思っていたからだ。

気が短く、赤信号さえもまともに待っていられない私としては割と忍耐強く頑張った方だと思う。

しかし数多の映画を見、エンドロールを最後まで見ていた末にたどり着いた結果は「エンドロールは全然見なくていい。」だ。

「エンドロールで余韻に浸るまでが作品」論を立証しようと、鳥の餌レベルのポップコーンをかき集めながら、参加スタッフの名前を端から読み

「へーメイクさんがアレクサンドルねえー」とか知ったかぶりしてみるが、知らない。ヘアメイクのアレクサンドル、全然私知らない。

そういえば特別セットが気に入ったとかの時は製作会社とか、ロケ地が気になったらロケ協力のテロップまで待つが、それはもう「余韻」でなくただのリサーチだ。やっぱりエンドロールで余韻に浸れない。喫煙所の方がマシだ。

そして、参加スタッフや挿入歌や衣装協力先が気にならない限り、エンドロールは見なくて良い。という結果に至るしかなかったのだ。

(もちろん、エンドロールにメイキングだったり、ダンスしてたりと工夫があるエンドロールは最後まで見よう。)

先日も友人と映画を見おわった後、すくっと立ち上がり「いやあ、キッシュだわ。これはもうキッシュとか、パテドカンパーニュしか食べれない。」と言い合い阿佐ヶ谷から高円寺まで理想の店を探し歩いた。(おかげでいいキッシュに出会えた)

ウォン・カーワァイをみたら小汚い中華料理屋で映画の感想を言い合って

エドワード・ヤンを見たらフライデーズだ。

ここまできて、ずっと言いたかったことがある。劇場から出口までの間に一緒に映画を見ていた人と感想を言い合うのが嫌いだ。だいたい席の前後の人に聞かれているし。

映画の後にやるトークショーレベルで嫌いだ。というか、映画の後のトークショーが嫌いだ。なんか、答え合わせをされているみたいでいやだ。

まあだいたいいつもトイレに行きたいか、ヤニ切れで

エンドロールは最初の主演周りの名前が流れたところでさっと立ち上がり、さっと消える。一番スマートで都会的ではないだろうか?

劇場に知り合いがいたとしても会わずにすむしね。

さて、そんなこんなで、そろそろ世はこの「エンドロール論争」に幕を閉ざすべきではないだろうか。みんな余韻は家か次の店でやってくれたまえ。


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