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ARIGATO SAKURAGAOKA

渋谷の桜丘町の一角が、再開発計画による解体待ちでデッドタウンと化していた。

これに気がついたのは11月の初めだったと思う。
その後、2日後ほどしてまたこのデッドタウンとなった一角に訪れてみた。
この数年間、私が知っていたはずの渋谷が、着実に変容していってしまう様子を、ただ見守っていた。
が。今年に入っていよいよ黙って見ていられなくなってきてしまった。

都内で最もお気に入りだったラブホテルの閉店から始まり、よく訪れた喫茶店、幼少期からのお気に入りだった本屋の数々。私の記憶があった場所が、ひとつひとつ削られていく。

今回余儀なくデッドタウンを強いられた桜丘町には、小学生のころに通っていた学習塾のあったビル、父に連れていってもらった楽器屋、宿題もやらずにショッピングに出てきてママにこっぴどく怒られた道端が存在している場所だった。

私の人生のほとんどの時間は、この渋谷という街で起きてきて、
私はこの街をよく知っているし、この街も私のことをすごくよく知ってくれている。

そんな街が、知らない人たちに勝手にかき乱されているのが悲しくってしかたなかった。「新たな創造には、破壊が必要だ」というフレーズを、現在森美術館で行われている「カタストロフと美術のちから展」で覚えた私だが、新たな創造をするために、わざわざ破壊をすることは必要なことなのだろうか。今渋谷で起きていることは、「再開発」という名のカタストロフのようだ。

私は昔書き溜めていた言葉をプリントアウトして、それを細かく切って、桜丘町のいろんな箇所に貼り付けていこうと決めた。

私、その中で起きた言葉を、閉ざされていく街に可視化して残していってしまうことで、私が、私たちが、この場所で、私たちの記憶が行われたことを証明したかった。

呼吸が止まってしまったまだ綺麗な建物の柱や、壁、ガラス、捨てられたゴミにひとつひとつ、両面テープでそれをはっつけていく。

そんなことをしても、もう何も動かないことくらいはわかっていた。それに、街がなくなっていってしまうかもしれないという事実は、もう変わりやしない。
それでも、私たちがいたということとか、いくつもの記憶がここで行われてきたということ、存在してきたんだということをせめて、知ってほしかった。

今、私たちが見ているものはなんだ。これは、未来なのだろうか。

見慣れない建設中の高層ビルは、外壁だけは立派なガラスで固められていて。まだ何も入っていないその内部は、私たちの不安を抱え込んで、膨大な虚無の闇を作り出している。今にも土砂降りになりそうな雨雲がずっと、渋谷に停滞しているような重圧感で。

ここに未来が本当にあると言うのだろうか。
今回art photo tokyoが企画していた「arigato sakuragaoka」展で多く見かけた、記録写真、そこにはパーティーを楽しむ群衆や、閉店した飲食店などの小売店が開店していた頃の様子が写っている。写真は、この渋谷という街の一部が死んでいく、閉ざされていくという事実によって、「記録写真」という域を超えて「今私たちが見ているものはなんだろう。」「私たちがしている破壊とは、創造なのか。」という疑問を幾度となく訴えかけてくれる。
遠くのほうで、ここで行われてきた私たちのいくつもの記憶達が、高らかな笑い声をあげて、爆音で響いている。その様子を、死んだ街の暗闇の中からひとりで見つめていた。


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